投稿者:無冠 投稿日:2016年10月23日(日)09時26分7秒   通報
全集未収録の特別文化講座『キュリー夫人を語る』を掲示します。

2008-2-8 創価女子短期大学 特別文化講座『キュリー夫人を語る』④

母の「真実」を残した娘の戦い 嘘は一切、許さない

 ● 言論の暴力は犯罪である
 一、終始、マリーの一家を守り続けたマルグリット・ボレルという女性は、このヒステリックな迫害の嵐は「外国人排斥、嫉妬、反フェミニズムという考え」(同)の産物だとみなしていました。
 マリーをパリから追放しようとする動きさえありました。それに対して母国ポーランドは、戻って研究を続けるよう、彼女に救いの手を差し伸べました。
 しかし、彼女は、それでもフランスに踏み留まりました。“残された使命を果たすために!”です。
 マリーは、力強く抗議しました。
 「わたしの行動で卑下せざるを得ないようなものは何ひとつありません」(同)
 「新聞と大衆による私的生活への侵害全体を忌むべきものと思います。この侵害は、高潔な使命と公衆の利益という大切な仕事にその生涯を捧げているのがあきらかな者を巻き込んだときにはとりわけ犯罪ともいえます」(同)
 言論人が永遠に心に刻んでいくべき、高潔な母の獅子吼であります。
 1911年の11月、マリーのもとに、スウェーデンから知らせが届きました。2度目のノーベル賞(化学賞)が授けられることになったのです。今度は、マリーの単独の受賞でした。
 ある伝記作家は、マリーは「国内で策略や困難に出くわしたが、外国のさまざまな機関からの評価によって十二分に報われた」(オルギェルト・ヴォウチェク著、小原いせ子訳『キュリー夫人』恒文社)と述べています。
 ただ、まさにこの時は、マリーに対する卑劣なマスコミの攻撃が行われている最中でした。
 ある人物からは、ノーベル賞を辞退するように勧告する手紙まで届きました。
 しかし、マリーは、「わたしは自分の信念に従って行動すべきだと思います」(前掲、田中京子訳)と書き送り、授賞式に出席し、堂々と講演を行ったのです。
 その姿は、多くの人に、マリーの絶対の正義を印象づけました。
 悪には怯んではならない。卑劣な人間どもには、徹して強気でいくのです。
 その後、マリーは、度重なる疲労と、精神的ストレスにより、病に倒れてしまった。
 言論の暴力が、どれほど人を傷つけることか。それは、生命をも奪う魔力があります。その残忍さ、悪逆さは、当事者にならなければ、決してわからないでしょう。これほど恐ろしい“凶器”はないのです。
 ゆえに、そうした社会悪とは、徹して戦わなければならない。
 もちろん、言論は自由です。しかし、人を陥れるウソは絶対に許してはならない。ウソを放置することは、言論それ自体を腐敗させる。社会のすみずみに害毒が広がり、民主主義の根幹を破壊し、人間の尊厳を踏みにじってしまうからです。
 マリーは、ファシズムの不穏な動きが生じつつあった時代に、警鐘を鳴らしました。
 「危険で有害な見解が流布しているからこそ、それと闘う必要がある」(同)

不正と妥協するな 権威に屈するな
私は自分の信念を貫く
「女性初」の金字塔 嫉妬や差別、言論の暴力にも勝った!

 ● 正義の人の名は永遠に残る
 一、マリーの二女エーヴが執筆した『キュリー夫人伝』は、1938年に出版されるやいなや、たちまら各国で翻訳され、今も多くの人に読み継がれている世界的な名著です。私も若き日に熟読しました。
 私が何回となく対話を重ねた、作家の有吉佐和子さんも、夫人伝を読んで、ひとたびは科学者を志したといいます。
 この長編の伝記をエーヴは、母の死後、3年ほどで一気に書き上げました。
 なぜ、それほど早く書き上げたのか。
 愛娘は、誰かが不正確な伝記を著す前に、母の真実の姿を、広く世界の人々に訴えたかったからです。
 それは、邪悪な言論に対する、娘の正義の反撃でした。
 エーヴは、はしがきに、「わたくしはたった一つの逸話でも、自分で確かでないものはいっさい語らなかった。わたくしはたいせつなことばのただ一つをも変形しなかったし、着物の色にいたるまで作りごとはしなかった」(エーヴ・キュリー著、川口篤ほか訳『キュリー夫人伝』白水社)と記しています。
 その静かな言葉の背後には、“大切な母を汚すウソは、一切許さない!
 虚偽には真実で対抗する!”──との熱い情熱が漲っています。
 私がともに対談集を発刊したブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁は、この二女エーヴと深い交流がありました。
 昨秋、彼女(エーヴ)がニューヨークで逝去され、102歳の天寿を全うされたことが報じられました。ご冥福を心からお祈りしたい。
 エーヴは、愛する母の真実の姿を描き出し、母の偉大な勝利の人生を、厳然と歴史に留め残した。
 チェコの作家チャペックは記しました。
 「この五十年間、現在の大臣や将軍やその他のこの世界の大人物の名前を、はたして誰が記憶しているだろうか? しかし、キュリー夫人の名前は残るだろう」(田才益夫訳『カレル・チャペックの警告青土社)
 キュリー夫人を迫害した人々の名前は、今、跡形もありません。しかし、キュリー夫人の名は、さらに輝きを放ち続けています。

 ● 生涯の味方
 一、かつて、私の母が、まさに臨終という時に、「私は勝った」と語りました。それは、なぜか。
 「どんな中傷、批判を受けてもいい、人間として社会に貢献するような、そういう子がほしかった。そして、自分の子にそういう人間が出た。だからうれしいんだ。社会のためにどれだけ活躍したか、挑戦したか、それを見たかったんだ」というのです。
 皆さん方もどうか、短大に送り出してくれた父母の深き真心に応えていってください。お父さんやお母さんが、「私は勝った!」と言ってくれるような娘に成長してください。
 創立者である私と妻は、大切な皆さん方の前途を、皆さんの生涯の味方として、つねに祈り見守っております。

    短大生
     一人ももれなく
       幸福王女たれ

「私はやりきった!」と 勝利の人生を飾れ

一、キュリー夫人は、優れた教育者でもありました。
 「一国の文明は国民教育に割かれる予算の比率で測定される」というのが彼女の持論でした。(イレーヌ・キュリー著、内山敏訳『わが母マリー・キュリーの思い出』筑摩書房)。
 ピエールと結婚してまもなく、キュリー夫人は教員の免許を取り、苦しい家計を改善するために、パリの女子高等師範学校に勤めたことがあります。
 この学校は、一流の大家の授業を女性に受けさせる目的で設立された学校で、マリー・キュリーは、初の女性教師となりました。

 ● 教え子たちに安心感を与えた
 一、教え子の一人は、こう振り返っています。
 「キュリー夫人の講義が私に光をもたらした。私たちを眩惑したのではなく、安心感を与え、ひき寄せ、ひきとめた。夫人の性格の率直さ、感受性の細やかさ、私たちのために役に立ってやりたいという願い、私たちの無知と私たちの可能性を同時によく心得ていたこと、そういうものがその原動力だった」(ウージェニィ・コットン著、杉捷夫訳『キュリー家の人々』岩波新書)
 マリーは、学生たちのために入念な準備をして、授業のやり方も、工夫に工夫を重ねました。
 さらに授業の方法や、学校で教える内容自体も、「どうしたら学生のためになるか」を根本に考え、積極的に学校の責任者に訴え、改革していった。マリーは若く、地位も高くありませんでしたが、下から上を変えていったのです。
 また、女子学生たちを自宅に招き、親身に相談に乗ってあげました。
 家族のこと、勉強のこと、生活のこと、将来の進路についてなど、親切に聞き、真剣に耳を傾け、一人一人の課題に、真心のアドバイスをしています。
 当初、マリーは、厳しそうな、近づきがたい先生に見えました。しかし、その奥に、じつに温かい心があるのを知り、女子学生たちは、彼女を深く慕っていくようになったのです。

 ● 苦労する学生に手をさしのべた
 一、マリーは、博士号の取得に挑んだとき、教え子を、学位論文の公開審査の席に招きました。
 どきどきしながら、その光景を見守っていた彼女たちは、試験官の質問に、マリーが的確に、見事に答えるのを目の当たりにし、まるで、わがことのように嬉しくなりました。
 彼女たちの一人は、こう綴っています。
 「ほかの女性に対する何という大きな手本を、励ましを、マリ・キュリーは今ここに与えたことだろうか!」(前掲、杉捷夫訳)
 マリーは、自分が勝利の実証を示すことで、後に続きゆく若き女性たちの心に、自信と誇りを植え付けていったのです。
 皆さん方の先輩たちも、そうした心で、母校の後輩に尽くしてくれていることを、私と妻は、いつも涙が出る思いで見つめております。
 マリーは記しました。
 「実験室において、教授たちが学生に影響を及ぼすことができるのは、彼らに権威があるからではなく、彼ら自身に科学への愛情と個人的な資質が備わっていることによるところがはるかに大きい」スーザン・クイン著、田中京子訳『マリー・キュリー1』みすず書房)
 「権威」で、若き学生の心をつかむことはできません。
 マリーは、自分自身が学生時代、大変な苦労をしたからこそ、貧しいなかで勉学に励む学生を見ると、ほうっておけなかった。後輩たちのために奨学金の手配をしてあげたり、さまざまな援助を惜しみませんでした。
 そうした姿は、学生のために尽くされる、創価女子短期大学の教員の先生方、職員の皆さん方とも重なり合います。

 ● 恩を忘れない
 一、彼女は、自分が受けた「恩」を忘れない女性でもありました。
 学生時代、マリーは、友人の奔走によって、ある財団から奨学金を受けていました。
 マリーは後に、少ない収入の中から懸命に工面して、奨学金として受けとった全額を持参して財団を訪れております。
 本来、この奨学金は返す必要のないものでした。それを返すというのは、前代未聞のことであり、担当者は大変に驚きました。
 マリーは、自分と同じような境遇の女子学生が困っているかもしれない。だから、一刻も早く返さなければいけないと考えたのです。彼女の律義にして、まっすぐな、そして誠実そのものの人柄をほうふつさせるエピソードです。
 マリーは、ラジウム製法の特許取得を放棄し、生涯、質素に暮らしました。それでも、少ない財産の中から、因っている人々のための援助を捻出していました。
 かつて親切にフランス語を教えてくれた貧しい女性のために、旅費を工面し、里帰りしたいという希望を叶えてあげたこともあります。その後、この女性は思い出を振り返り、マリーの優しさに熱い涙を流して感謝しました。

 一、故郷ポーランドのことも、決して忘れたことはありませんでした。
 晩年に彼女が指揮したラジウム研究所には、さまざまな国籍の研究者がやっできましたが、そのかには必ず、ポーランド人がいました。
 また、ポーランドに放射能の研究所を建設する計画が持ち上がったときは、彼女の最も優秀な教え子たちを派遣しています。その一人に、ヴェルテンステイン博士という大学者がいました。
 彼は後に、ポーランド物理学会の創設者の一人となりますが、この方に師事したのが、パグウォッシュ会議の議長を務め、ノーベル平和賞を受賞したジョセフ・ロートブラット博士です。
 ロートブラット博士と私は対談集を発刊しました。沖縄で会見したとき、博士は、マリー・キュリーが亡くなる2年前に会った思い出を、しみじみと述懐しておられました。ロートブラット博士は、まさに、マリー・キュリーの孫弟子に当たるわけです。

 ● 戦地を走り負傷者を救助
 一、第1次世界大戦が勃発すると、マリーは、長女のイレーヌとともに、負傷者の救護に奔走しました。
 48歳で車の運転免許を取り、自ら開発したレントゲン車のハンドルを握り、負傷者の救助のために戦地を駆け回った。彼女は行動の人でもあったのです。
 役人の抵抗に遭いながらも、20台の自動車にレントゲン装置をつけ、さらにレントゲン装置を備えた200の放射線治療室をつくった。そして、220班の救護隊を訓練しました。
 このマリーの取り組みによって、銃弾などが体内のどこにあるかを知ることができ、効果的な治療が可能となったのです。この診察を受けた負傷者は、100万人を超えたといわれます。
 惨状を目にしたマリー・キュリーは、「戦争の理念それ自体にたいしてにくしみ」を抱いていました(木村彰一訳「キュリー自伝」、『人生の名著8』所収、大和書房)。
 イレーヌは、「何よりも母が腹をたてたのは、軍事費のためあらゆる国々の富の大半が吸いとられ、有用な活動が阻害されるのを見ることでした」(前掲、内山敏訳)と語っています。
 後年、マリーは「平和のための知性の連帯」を築くため、国際連盟の活動にも参加しています。

彼女は学生に尽くした
教え子の回想 「何という大きな手本と励ましを与えたことだろうか」

 ● 娘もノーベル賞
 一、イレーヌは、マリー・キュリーと同じ放射能研究の道に進みました。母と娘は、科学の発展に身を捧げる同志となったのです。
 イレーヌは、人工放射能の研究で、夫のフレデリック・ジョリオ=キュリーとともに、ノーベル化学賞を受賞しています。
 その受賞理由となった「人工放射能の発見」は、マリー・キュリーの亡くなる半年前のことでした。苦心の末の発見に驚き、喜んだ二人は、母のマリー・キュリーを呼んで、確認してもらっています。
 「あのときのキュリー夫人の、強烈な喜びようといったら、わたしは一生忘れることはないでしょう。おそらく、彼女の生涯で最後の、大きな喜びだったと言えるでしょう」(ノエル・ロリオ著、伊藤力司・伊藤道子訳『イレーヌ・ジョリオ=キュリー』共同通信社)とは、イレーヌの夫フレデリックの感慨です。
 放射能の研究に生涯をかけたマリー。
 人生の総仕上げの時期に、後継の子どもたちが、科学の新たな時代の扉を開くのを見届けることができたのは、どれほど嬉しかったことでしょうか。

 一、1922年、フランスの医学学士院は、マリー・キュリーを同学士院初の女性会員に選びました。その11年前、彼女を会員にすることを拒んだ科学学士院に対する非難決議とともに、です。
 そして1923年、フランス議会は、ラジウム発見25周年を記念し、マリーの功労に深い感謝を表しました。
 マリー・キュリーは勝ったのです!
 何に? あらゆる苦難に。残酷な運命に。そして、自分自身に。
 すべてに打ち勝って、マリーは、自分自身の使命を完壁に全うしたのです。

 ● すぐれた激励者
 一、晩年のマリーの健康状態は、決して良好ではありませんでした。いつも、しつこい疲れに悩まされていましたし、白内障で失明の危機にもさらされました。
 過酷な研究活動による疲労の蓄積と、長年の放射線による被ばくが、彼女の健康を、いちじるしく害していたのです。
 彼女の手は、ラジウムによるやけどの跡が残っており、固く、たこができていたといいます。
 「この道はあらゆる生活の安易さを断念することを意味しました。しかしかれは決然として、じぶんの思想も欲望も、この理想に服従させました」(キュリー夫人著、渡辺慧訳『ピエル・キュリー伝』白水社)
 彼女は、真理の探究者として茨の道を歩んだ夫ピエールについて、こう書きましたが、それは、そのまま自分自身の生き方でもあったでしょう。
 マリーは晩年、ピエールと自分が創始した学問をさらに発展させるため、研究所の充実と、後継者の育成に力を注ぎました。
 研究所では、誰とも分け隔てなく接し、多くの若き学究者が、常に彼女の周りを取り囲んでいた。
 彼女自身、若い人々と過ごすのが楽しかったといいます。
 「この孤独の女学者は、生来の心理学者的、人間的天分によって、すぐれた激励者としての資格ができていた」(エーヴ・キュリー著、川口篤ほか訳『キュリー夫人伝』白水社)と、二女のエーヴは指摘しています。

『キュリー夫人』
 戦争それ自体を憎む
 軍事費が国富を吸いとり有用な活動を阻害する

未来を見つめよ!
大切なのは 何がなされたか、ではなく何をなさねばならないか

 ● 荘厳な臨終
 一、マリーは60歳を過ぎても、朝早くから、夜遅くまで、研究所で仕事をしていました。
 研究所の上に住んでいたある住人は、「彼女がよく研究所に朝一番に来て、最後に帰っていった」ことを証言しております(前掲、田中京子択『マリー・キュリー2』)。
 62歳のマリーは、友人にこう書き送りました。
 「いつも考えているのは、何をなさねばならないかであって、何がなされたか、ではありません」(同)
 マリーの目は、最後の最後まで、未来に向けられていました。死の直前にも、本の執筆をはじめ、さまざまな計画を抱えていました。
 愛娘のエーヴは、こう綴っています。
 「母はずっと、私がこの世に生まれでるはるか前の、夢を追う貧しい学生、マリア・スクウォドフスカ(=故郷ポーランドにいた頃のマリーの名前)としての心のままで、生きていたように思われる」(エーヴ・キュリー著、河野万里子訳『キュリー夫人伝』白水社)
 どんな立場になっても、母になっても、年老いても、彼女の魂は、理想に燃える女子学生のときと変わらずに、赤々と燃え続けていた。
 マリーは、「永遠の女子学生」だったのです。
 彼女は、昇りゆく朝日とともに、荘厳な臨終を迎えました。
 「夜が明け、太陽が山々をバラ色に染め、澄みきった空にのぽり始めたとき、輝かしい朝の光が部屋の中にあふれ、ベッドをひたし、くぼんだほおと、死のためにガラスのように無表情になった灰色の目にさしこんだとき、ついに心臓がとまった」(前掲、川口篤ほか訳)
 「白衣を着、しらがを上げて広い額をあらわに見せ、騎士のように荘重でりりしくて平和な顔をした彼女は、いまやこの地上でもっとも美しく、もっともけだかい存在だった」(同)
 1934年7月4日、娘に見守られて、マリー・キュリーは、その崇高な生涯を閉じました。66歳でした。

 ● 逆境の時こそ本当の底力が
 一、「わたしは、人はどの時代にも興味のある有用な生を営むことができると思います。
 要は、この生をむだにしないで、《わたしは自分にできることをやった》とみずから言うことができるようにすることです」(同)
 マリーの叫びです。
 どんな人でも、どんな時代に生きても、その人には、その人にしかできない使命があります。
 特別な人間になる必要はない。有名になったり、華やかな脚光を浴びる必要もない。
 平凡であっていい。「自分らしく」輝くのです。
 大切なのは、「私は自分にできることをやりきった!」と言えるかどうかです。
 順境のなかでは、人間の真の力は発揮できない。
 逆境に真正面から立ち向かっていくとき、本当の底力がわいてくる。逆境と闘うから、大いなる理想を実現することができるのです。

学び求むるわが母校 誉れの青春光あれ

 父娘(ふし)の絆は永遠ならむ

 桜花を見つめ 歩みゆく
 知性の乙女は 美しく
 学び求むる わが母校
 誉れの喜春 光あれ

 希望は広がる わが心
 友情と学ばむ 晴れの日々
 幸福博士は 胸をはり
 おお白鳥の 幸の道

 くる日くる日も わが歴史
 父娘の絆は 永遠ならむ
 翼を広げよ 白鳥は
 誓いの空をば 世界まで

 うれしいことに、2年前の1月に誕生した短大歌「誉れの青春」の歌碑が、このほど卒業生(短大白鳥会)より寄贈され、まもなく除幕されます。これは、短大開学20同年(2005年)、短大白鳥会結成20周年(2007年)を記念して、真心から贈ってくださったものです。
 ここに歌われた通り、気高き誓いを陶に、今春で8000人を超える卒業生が、世界各地で素晴らしき翼を広げて活躍してくれております。創立者として、これほど誇らしいことはありません。
 大教育者クマナン博士の尽力で関学したインドの「創価池田女子大学」では、この1月30日、第5回の卒業式が行われま
した。皆さん方と人間教育の理念を共有する、最優秀の女性たちが、社会へ巣立っております。
 牧口先生が先進的な「女性教育」に携わられてより、1世紀──。
 本格的な「創価女性教育の第2幕」がいよいよ開幕したのです。

 ● 今いる所で光れ
 「若き乙女たちが、理想を抱いて行き交う、短大の「文学の庭」。
 キュリー像は、今日も静かに、そして真剣勝負の姿で立っています。
 この像は、無言でありながら、無限の励ましを贈ってくれます。
 ──私は戦いました。たくさん、つらいことがありました。けれども、負けませんでした!
 あなたも負けないで!
 私は勝ちました!
 あなたは、どう生きるのですか? 今、あなたの胸にある「誓い」は何ですか?──
 一人一人の女性が、今いる、その場所で、この像のごとく、毅然と立ち上がることです。
 そして、それぞれの使命に燃えて、全生命を光り輝かせていくとき、時代は変わり、歴史は動いていきます。
 あのワルシャワの移動大学で、若きマリーたちが声高らかに朗読した詩があります。
 「真理の明るい光をさがせ
 まだ見ぬ新たな道をさがせ」
 「……どの時代にもそれぞれの夢があり きのうの夢想は打ち捨てていく
 さあ、知識のたいまつを掲げ 過去の成果に新たな仕事を積みあげて未来の宮殿を築くのだ」(前掲、河野万里子訳)
 わが創価の貴女たちよ、「永遠に学び勝ちゆく女性」として、未来に輝く平和と正義と幸福の大宮殿を築いてくれたまえと、深く深く祈りつつ、記念の講座とさせていただきます。

    世界一
     わが短大は
      花盛り
     学びと幸の
      女王の笑顔に
                           (終わり)