2016年9月18日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 9月18日(日)11時19分16秒 通報 近頃、須田論文(宮田論文への疑問――日蓮本仏論についての一考察)が ネット上に流出したことによって、いろんな議論が巻き起ころうとしています。 学術的研究の視点から創価学会の今後の教義を論じた「宮田論文」に対して、 元教学副部長(教学部)の立場から宮田論文に異議を問うた須田論文は、 そのネームバリューも兼ね備えているので非常にインパクトもあり新鮮でもあります。 また、須田論文が公開されたことによって、 未来の学会教学の議論が活発になることは非常に喜ばしいことでもあるし、 有りがたいことだと思います。 須田論文については、いずれ【論考シリーズ】で取り上げたいと考えています。 ただ宿坊板の皆様に考えていただきたいのは「日蓮本仏」という言葉の定義についてです。 この言葉(日蓮本仏)の定義が、今の学会教学部および教義形成に影響力のある日蓮研究学者が 池田先生の思想に追い付いていないと思えるのです。 つまり、両者ともまだまだ宗門教学の域から抜け出ていないということです。 池田先生の思想は、すでにその域を超えてもっと先を行っていると思う。 グリグリが使う「日蓮本仏」は、ただ単に「釈迦仏や諸仏をも超える宇宙根源の御本仏」 という神聖化され、きらびやかに荘厳されたものではありません。 「釈迦仏の力を持ってしても救えない末法の衆生に、初めて成仏の道を開いた根本の仏」ということです。 その意味において、須田論文は宮田論文の破折には有効ですが、 学会教学の再構築を考えた場合、物足りなさを感じます。 もちろん今の須田氏の立場では、分かっていても「言えること」と「言えないこと」はあると思います。 だからこそ、池田先生を人生の師匠と定め、 日蓮大聖人の語る仏法(日蓮仏法)に肉薄していこうとする純粋な一信仰者が声を上げ、 自覚をもって、今後の学会教学を皆の合議の上で構築していく責任があると思うのです。 無防備に両者に学会教学の再構築をゆだねることは危険であり、 二十一世紀(2001年)以降から、私たち弟子に語られた池田先生の思想にも反すると思う。 帰納的ではあるけれども、もっと自由に大聖人が語る仏法とは何なのかを 皆で語り合い、その議論を積み重ねていくことが必要だと感じます。 さらに言えば、経典の王者と称えられる〝法華経〟作成者が「無名」であるように、 宿坊板に集う名も無き私たちが「池田先生が語られる日蓮仏法」とは一体何なのかを語り合い、 後世に残していく作業が必要なのではないでしょうか。 その意味において、宿坊板の位置づけは ① 情報発信の場 ② 現学会組織の現状を伝える場 ③ 信心論を共に語る場 ④ 池田思想教学を構築する場 だとグリグリは捉えています。 そうすることによって「54年問題」の本質はおのずと明確になってくると考えます。 Tweet