2016年10月5日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年10月 5日(水)18時20分11秒 通報 編集済 投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2016年10月 5日(水)05時16分35秒 須田論文を効果的に拡める為には、噛み砕いたものが必要でしょうか。 投稿者:虹と創価家族 投稿日:2016年10月 5日(水)07時51分21秒 自分も、心から期待しております。 須田論文を、是非とも現場会員の武器になるようにして頂きたいのです。 ■******■*******■ 信濃町さんと虹さんの上記の「答え」がすべてを物語っているように思います。 また後日、詳しく論じていこうと思いますが、若干の所感に変えて話したいと思います。 ●なぜ、あれだけ噛み砕いて本仏論を説明している「須田論文」をさらに噛み砕く必要に迫られるのか。 ●なぜ、須田論文が今のままで現場会員の「武器」にならないのか。 ここの所を皆さんじっくり考えてみてはいかがでしょうか。 釈迦本仏論にせよ、日蓮本仏論にせよ 彼らは一体どうしたいのでしょうか。 釈尊や日蓮大聖人は一体何をしたかったのでしょうか。また何をしたのでしょうか。 深遠な法を説きたかったのか。それとも全民衆を成仏させたかったか――。 仏法とは、 「説いた人」と「説かれた法」と「説かれた時」が一体となって、初めて「法」になるのだと考えます。 そしてその「法」によって功徳を受ける「時代」も決まっているのです。 でなければ、全民衆を成仏の軌道に乗せることは不可能だと思います。 そこには伝説(根拠のない説)や言い伝えなどと言った「原因と結果」を無視したものは存在しないし、 それらは各時代において、常に厳しい検証がなされています。 大聖人の語る仏法の言葉は、当時の民衆から為政者まで容易に理解できたと思います。 いや、むしろ簡単すぎてなかなか信じることができなかったのかも知れません。 熱原の農民は、なぜ「法」のために命を投げ出せたのでしょうか。 それは、大聖人の説く法を日興上人を通して容易に理解し、体得したからではないでしょうか。 Tweet