投稿者:無冠 投稿日:2016年 9月17日(土)12時47分10秒   通報
全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。

2008-11-18 【11・18記念代表協議会②】

● 「真実の学会」は「わが心の中」に
 一、私は、ほかのだれよりも強く、広布の同志を守ろうとした。
 それゆえに、御聖訓の通り、だれよりも多く迫害を受けてきた、。
 いわれなき非難中傷を浴びせられ続ける苦しみは、実際に体験した者でなければ、わからないものかもしれない。
 なかには、大幹部でありながら、そうした状況に慣れてしまい、私が矢面に立つことが当然だと思い始める者も出た。
 同志への慈愛も、魅力もなく、ただ威張るだけで自分のことしか考えない卑劣な輩もいた。そうした忘恩の人間が皆、惨めな人生をたどっていることは、皆様がよくご存じの通りである。
 しかし、今から思えば、すべて意味のあることであった。そうした動きが生じることによって、広宣流布の進むべき道が、いよいよはっきりと見えるようになったからだ。
 ともあれ「真実の創価学会」は、師弟に生き抜いた「わが心の中」にある。
 師弟の「本流」を、諸君には知っていただきたい。そして、ますます勢いよく、さらに素晴らしき学会を、ともどもにつくっていきたい。
 薬王菩薩が、自身の生命を燃焼させた光明は、1200年にわたって輝き続け、世界を照らしたと説かれている。
 学会は、創立78周年を勝利で迎えた。
 創価の師弟の、不惜身命の魂が継承されていく限り、学会は永遠に光り輝いていくことができると申し上げておきたい(大拍手)。

● 病に打ち勝つ「究極の力」
 一、寒さが厳しさを増してきた。皆、風邪などひかないように、健康第一の一日一日であっていただきたい。
 もちろん、どんなに気をつけていても、病気になることはある。仏法が「生老病死」の四苦を説いているように、一面では、人生は病との闘いといえるかもしれない。
 「信心」は、その闘いに打ち勝っていく究極の力なのである。
 日蓮大聖人は、病気の報告をした門下の太田乗明に対する御手紙の冒頭で、こう記されている。
 「御痛みの事一たびは欺き二たびは悦びぬ」(御書1009ページ)
 あなたが病気になったことを一度は嘆きましたが、それによって、さらに仏法を深く学び、実践していけるのだから、私はむしろ喜んでいます──そうした深い御心からの御言葉と拝される。
 大聖人が、愛弟子の病気を深く案じられ、平癒を祈念してくださったことは、いうまでもないだろう。
 その上で、信心根本に闘うなら、必ず病気に打ち勝っていけると励まされたのである。
 妙法は、何があっても変毒為薬できる、不可思議の法である。
 大聖人は「この病は仏の御はからいであろうか。そのわけは、浄名経、涅槃経には病がある人は仏になると説かれている。病によって仏道を求める心は起こるものである」(同一四八〇ページ、通解)と仰せである。
 病気をしたからこそ、求道心を奮い起こしていける。大きく境涯を開くことができる。また、病気の人を力強く励ませるようになる。
 信心の眼で見るならば、すべてに深い意味がある。そして、強き信心に生き抜くならば、必ず宿命転換を成し遂げ、勝利の人生を開いていくことができるのである。

● 「卑しい人間にはなるな」
 一、激動の幕末期に活躍した医学者・緒方洪庵(1810~1863年)。彼は、門下生への手紙で綴っている。
 「師弟の関係は生涯にとりのぞいてはならぬ大切なこととおもいます」(緒方富雄・梅溪昇・適塾記念会編『緒方洪庵のてがみその五』莱根出版)
 緒方洪庵は、大阪に「適塾」を創設して、日本全国から集った逸材を薫陶した。
 賢明な八重夫人も、青年たちの母代わりとなって親身に世話をした。
 門下の一人・福沢諭吉は、この八重夫人を”私がお母さんのように敬愛している大恩人”と何度も語っていた(梅溪昇著『緒方洪庵と適塾』大阪大学出版会)。
 この緒方夫妻のもとから、千人を超える愛弟子たちが巣立ち、自らの使命とする場所で、師の精神を体現して、近代日本の医学・学術の発展を大きく開いていったことは、あまりにも有名である。
 私も関西の同志とともに、大阪・北浜の適塾の史跡を訪れた思い出がある(昭和61年=1986年)。
 そこには、塾生の名前、出身地、入塾年日が20年にわたって連綿と記された「姓名録」が厳粛に留められていた。
 師・洪庵は、弟子たちが塾を出た後も、多くの手紙を送り、心を込めて激励を続けた。
 弟子たちもまた、近況や医療に関する質問、御礼の報告等を、師のもとへ送り届けた。
 たとえ、物理的な距離は離れていても、師弟の心は、揺るぎなく結ばれていたのである。
 洪庵は、塾を巣立ちゆく門下生に、「事に臨んで賤丈夫(心のいやしい卑劣なおとこ)となるなかれ」(同)などの指針を贈っている。
 さらに門下生への手紙には、「どうぞあなたは力をつくして道のため、世のためご勉強してくださるよう祈ります」(前掲『緒方洪庵のてがみその五』)等と書き送っている。
 「世のため」「(医学の)道のため」「人のため」──ここに、適塾の師弟を貫く精神がある。

● 自分が礎に
 一、緒方洪庵の著名な門下生の一人に、近代日本の「医療福祉の祖」「衛生事業の創立者」と讃えられる、長与専斎(1838~1902年)がいる。
 健康の保全や、疾病の予防・治療などに取り組むことを「衛生」として世に普及させた人物でもある。
 長与専斎は、神奈川の鎌倉でも、保養所の建設、海水浴場の開設など、人々の健康のために先駆的な事業を展開した。
 じつは、鎌倉のSGI(創価学会インタナショナル)教学会館の敷地には、長与家の別荘があった。
 ここは、専斎の子息で作家だった長与善郎をはじめ、近代日本で人道主義を掲げた「白樺派」の文学者、文化人が集い、対話を重ねた地でもあった。
 ところで、長与専斎は生来、病弱であった。そのため、自分は衛生事業の先駆となって道を開ければよい。あとは、後継の人々が大成してくれるにちがいないとの思いで戦った。
 彼は綴っている。
 「おもうに余は幼年の頃より多病羸弱にして気力も薄かりければ、衛生の事を思い立ちし初めより自らその成功に居らんなどのことは思いもよらず、ただその端緒をだに啓きたらんには、後継おのずからその人ありて大成の功を完うする時もあるべしとて、さては志を起こしたる」(小川鼎三・酒井シヅ校注『松本順自伝・長与専斎自伝』平凡社)
 人の労苦の上に、安住するのではない。
 むしろ自分が労苦を一身に引き受けて、道を開く。大成する栄誉は後輩に重ねていく。ここに、人間としての崇高な生き方がある。
 33年前、SGIの発足の際、集った各国の尊き先駆者たちに、私は申し上げた。
 「皆さん方は、どうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」
 この一念で、私と世界の同志が戦い抜いてきたゆえに、今日のSGIの大発展がある。
 今、長与家ゆかりの鎌倉のSGI教学会館には、海外から多くの識者や同志が来訪され、千客万来の賑わいである。
 大聖人の御在世を偲びながら、地元の方々と有意義な交流を広げておられる。
 訪れた方々は、皆、心から喜んでくださっている。常に最高の真心で歓迎してくださる、鎌倉の同志に、この席をお借りして、御礼を申し上げたい(大拍手)。

■ 一、私が、恩師・戸田城聖先生にお会いしたのは、19歳の時である。
 近代日本文学にも、数え19歳で、生涯の師匠との出会いを果たした文豪がいる。
 有名な泉鏡花である。師匠は、明治文壇の雄として名高い、尾崎紅葉であった。

● 「人として尽すべき道がある」
 一、師弟はともに、学会本部のある信濃町にほど近い、東京・新宿の神楽坂界隈に住んでいたことでも知られる。
 紅葉は、代表作『金色夜叉』に記した。
 「およそ人と謂う者には、人として必ず尽すべき道がある」
 「人の道という者があるのだ」(『金色夜叉(下)』岩波文庫)
 「人の道」──その真髄こそ「師弟の道」であろう。
 「紅葉と鏡花。この二人は文学史上、希有の師弟と謳われた。
 近代日本文学の新しい道を開いた尾崎紅葉。
 戸田先生の故郷・北陸の石川で生まれた泉鏡花は、青春時代、紅葉の作品を読み、深い憧れを抱く。
 「我日本の東には尾崎紅葉先生とて、文豪のおわするぞ。と崇敬日に夜に止む能わず」(『鏡花全集第28巻』岩波書店。一部、現代表記に改め、漢字をひらがなにした=以下同じ)
 「先生のお顔が見られたら、まあ、どんなに嬉しかろう」(「紅葉先生」、『明治文学全集18 尾崎紅葉』所収、筑摩書房)
 求道の思いやみがたく、ついに上京して、尾崎紅葉の門を叩いたのである。
 1891年(明治24年)の錦秋の10月19日のことであった。
 そして鏡花は、四六時中、師匠の傍らで薫陶を受けることになる。
 師匠・紅葉は「玉磨かざれば光無し」(『紅葉全集弟10巻』岩波書店)と綴った。
 訓練は験しかった。朝晩の掃除。多くの来客の対応。師の外出のお供……。
 行き届かないところは、厳しく叱責された。他の弟子がやった失敗に対してまで、「なぜ、互に注意をして未然に過失を防いでやらないか、お前は同門に冷淡だ」(前掲「紅葉先生」)と指摘された。
 真の弟子に対する鍛錬とは、そういうものだ。

● 文は気合で習う
 一、愛弟子・鏡花にとっては、師の薫陶がすべてであった。
 師を心底から崇敬し、師のためなら水汲みでも何でもして働かせていただくという決心であった。見栄や体裁など、かなぐり捨てて仕えた。
 鏡花は、その心意気を、文章は「朱筆より気合で習う」(同)と表現していた。
 師弟といっても、弟子の一念で決まる。
 何より鏡花は、師・紅葉の厳愛の意味が、よくわかっていた。
 「(紅葉先生は)一旦その弟子達の世話を引き受けるとなったら、もう中途半端な事なんかして置かず徹底的にその者の一人前になるようにと仕込むのです」
 「厳格ではあったが、先生はよく可愛がって下すった」「何から何まで教えられた」(同)と。
 私には、戸田先生の薫陶と二重写しで、胸に迫る。
 朝から夜中まで、私の青春は「戸田先生をお護りする」──これが、すべてであった。
 先生の訓練は厳しかった。先生に呼ばれれば、いつでも、どこへでも飛んでいった。
 先生に託されたことは、どんな困難があろうと必ず実現した。
 先生も私を、亡くなられる間際まで、命がけで薫育してくださった。世界の知性と縦横無尽に対話できるだけの、最高の人間学を授けてくださった。
 これが創価の師弟なのである。

■ 一、結びに、私と同じ心で戦い進む、わが愛弟子たちに一句を贈りたい。

    創立日
     君たちありて
         大前進

 長時間ありがとう!
 すべてに立派な総仕上げをしていこう! (大拍手)