投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年 9月12日(月)07時55分16秒   通報
<円融の三諦>
一つの生命において「空」と「仮」と「中」の三つが、ばらばらという事はありえません。
「中」という「法(実相)」は、「空」と「仮」という個々の生命(諸法)の外には存在しません。

法華経の智慧 第八回 「諸法実相の心」

名誉会長:大切なことは、たとえば地獄界なら地獄界の衆生も、自己の真実の姿(実相)、

     すなわち“汝自身”を知れば、実は輝かしい宇宙生命と一体であるということです。
     しかも、その宇宙生命は、ほかならぬ地獄界という自身の現実に即して開顕する以外にない。
     「実相」という永遠の生命世界は、いつ、どこにあるか。「いま」「ここに」ある。

     それを悟れば仏、悟らなければ九界です。ゆえに、菩薩界が仏界に近いのでもなければ、

     地獄界が仏界から遠いのでもない。平等に、自己に即して仏界を開くことができるのです。

     「個々の生命(諸法)」は即「宇宙生命(実相)」である。しかも「宇宙生命(実相)」

     と言っても「個々の生命(諸法)」を離れては存在しないのです。
     こういう「諸法実相の生命の世界」を、大聖人は、こう表現されています。
     「心すなはち大地・大地 即 草木なり」(御書 p1597)、白米一俵御書)と。

     「心」は宇宙生命と言ってよいでしょう。
     法華経以前の経典では、まだ哲学が浅いゆえに、“心(宇宙生命)から万法(個々の生命)

     が出生する”等と説いた。心は大地のごとく、万法は草木のごとしと。心と万法が別々です。
     しかし法華経は、そうではない。心がすなわち大地であり、大地はすなわち草木である。

     実相と諸法は一体である。分けられない。月も花も、ひとつひとつが、宇宙生命の全体

     と一つである。
     「月こそ心よ・花こそ心よ」(御書 p1597)です。

斉藤:  多くの哲学が「現象の奥に」真理を見ようとしたり、「現実の根底」

     に根源の一者を立てたりしました。しかし、法華経は、そうではないのですね。
     この白米一俵御書には「まことの・みちは世間の事法にて候](御書 p1597)との有名な

     御言葉があります。「世間の事法」という現実(諸法)に即してこそ、「まことの道」

     すなわち実相の智慧は発揮されるわけですね。

遠藤: 法華経法師功徳品(第十九章)では、法華経を受持する人に六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)

    が清浄になる功徳があると説きます。その中の意根の功徳をこう説いています(法華経 p561)。
    ?-法華経を受持する人が説くことは、すべて実相に背かない。世間の書物や、治世の言葉や、

    経済の営みについて説いても、みな正法に適っている。
    これを受けて天台は「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」と述べています。

名誉会長:法華経の偉大な功徳です。また、法華経を信ずる人のあるべき姿です。法華経を信ずる人は、

    善は善、悪は悪として、正しいことを説かなければなりません。それでこそ「実相と相違背せじ」

    となる。

遠藤: 次元は違うかもしれませんが、中国の古典に「一葉落知天下秋(一葉落ちて天下の秋を知る)」

   (唐庚『文録』)とあります。
    「一葉が落ちる」姿を見て、「秋」の到来を知ることができる。あえて諸法実相に置き換えれば、

   「一葉が落ちる」姿は諸法、「秋」は実相でしょうか。

名誉会長:見えない「秋(実相)」は、見える「一葉(諸法)」に自分を映し出すのです。

    諸法は実相の顕れです。また諸法に顕れない実相はありません。