2016年6月17日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 6月17日(金)17時27分1秒 通報 いずれにしても、提婆達多は自分の欲望に支配され、 我見と慢心から反逆の限りを尽くし、地獄へ堕ちてしまったのです。 貪り、瞋り、愚かの生命に支配され、どこまでも我見を肥大化させた提婆達多の姿は、 現代において誰もが落ちてしまう罠なのかもしれません。 しかし、増上慢に陥っている人は決して自分がそうなっているとは思いません。 多くの同志が忠告しているにも関わらず、我こそは本物の弟子だとして尊大に振舞い、 すりよって来る者だけを大事にしているような仏弟子がいたならば、 間違いなくその人は、提婆達多の眷属であると確信します。 絶対に自分がそうならないために、どんなに愚鈍でも良い、自分に自信が持てなくても良い、嘆く必要もない。 師匠への報恩を誓う弟子ならば、現代の修利槃特となって、師匠の言葉を信じ、 師匠の言葉に我見を加えず、素直に信受し実践すればいいのです。 成仏の道は、仏を信じ、たとえ一句でもそれを実践し、その一句を人に語っていくことが重要なのです。 なぜなら「力があれば、一文一句でも語っていけ」とは、大聖人の厳命であるし 「行学は信心より起こる」(一三六一頁)とは大聖人の師子吼だからです。 何もむずかしくはありません。 ともあれ、修利槃特は釈尊を信じて疑わず、 釈尊の言葉通りに実践し、ついに法華経で仏になることができました。 修利槃特の故事を通して、大聖人は弟子たちに「信仰の在り方」を教えてくれているのだと思います。 最後に池田先生の指導を記して終わります。 ――どんな詭弁や、すり替えにも目を曇らされてはならない。事実を正確に見ることだ。 いかなる理由をつけようとも、無力な庶民を権威でいじめ、苦しめることは、悪である。 いわんや仏法を習う者として、そうした行為があれば、その人間は、キリスト教のうちでも もっとも醜悪な聖職者にそっくりということになる。いわゆる外道のなかの外道である―― 希望の明日へ(平成三年一月十六日) おわり Tweet