投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 6月17日(金)17時26分20秒   通報
釈尊は王に答えます。

「学は必ず多くは必要としない。学んだことを実行するを上となすのである」と教え、
さらに偈を説いて「一法句を解するも行ぜば道を得べし」と説いたと記されています。

修利槃特と提婆達多――。

この対極にあった二人のことを、大聖人は

「このことはひとえに末代の今の世のことを表しているのである。決して他人事と思ってはならない」

と弟子たちに警告を込めて訴えました。

提婆達多にしても最初は、自らの才智を自覚し、その智に溺れないように用心していたと思うのです。
しかし、自分は師匠の従兄だという自惚れから、自らを省みることができなかったのでしょう。

この点は釈尊に叱責され、それ以降、陰の戦いに徹し抜いた密行第一の「ラゴラ(釈尊の息子)」と対照的です。

そしてもう一つ、提婆達多にはどうしても釈尊を許せない「男の嫉妬」ともいえる出来事がありました。

大聖人は

「仏は浄飯王の太子であり、提婆達多は斛飯王の子である。
兄弟の子息であるから仏にとっては従兄であったが、今も昔も、聖人も凡夫も、
人の仲を違えるのは、女人のことから起こるのが第一の怨となるのである。

釈迦如来が悉達太子の時、提婆達多も同じ太子であった。
ヤシュ大臣に娘があり、ヤシュダラといった。
全インド第一の美女でその名は四海に聞こえた天女である。

悉達太子と提婆達多はともに妃にしようとして争ったので仲が悪くなったのである(通解)」
(御書一〇四〇頁)と提婆達多のエピソードを紹介しています。

つまり、ヤシュダラは釈尊が太子だった時の妻です。
その出来事がヤシュダラへの横恋慕だったとしても、提婆達多にはどうしても譲れないことだったのだと思います。

ちなみに、かつて釈尊の妻であったヤシュダラは、後に出家し釈尊の弟子になりました。
そして法華経(勧持品)で成仏の受記を受け、女人成仏の証とされています。