2016年5月18日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 5月18日(水)16時45分20秒 通報 釈迦仏より尊貴な菩薩、師匠よりも偉大な弟子――これは何を意味しているのでしょうか。 天台大師は法華文句のなかで地涌の菩薩を指して「皆是れ古仏なり」(国訳一切経四〇六頁)と述べています。 つまり、地涌の菩薩は単なる菩薩ではなく、その本質は仏であるということです。 確かに地涌の菩薩は「菩薩」として登場していますが、涌出品で表現された地涌の菩薩の実体は、 菩薩の範疇を超えた存在で描かれ、その本質は仏であることを暗示しているようにも思えます。 また、地涌の菩薩が娑婆世界の下の虚空に住していたとされることも、 彼らが生命の根底である第九識の仏界に立脚し、すでに仏の境涯にあることを象徴していると解釈できるし、 地涌の菩薩が仏の特徴である三十二相を具えていることも、その本質が仏であることを示しているとも解釈できます。 要するに、 地涌の菩薩が菩薩として法華経の会座に登場するのは、 あくまでも外に現れた姿に過ぎず、その本地(内証)はすでに妙法を所持している仏だということです。 釈尊が次の寿量品で久遠の昔に成道した仏であることを示すためには、 前の涌出品で地涌の菩薩が釈尊によって教化された弟子であるという構成をとらざるを得ず、 釈尊が無数の大菩薩たる地涌の菩薩を教化したことによって、 釈尊が今世で成道した仏ではないことを示すことができます。 地涌の菩薩の本地が仏であることを明からさまに示せないので、 それを暗黙のうちに悟らせるために、仏よりも尊貴な「菩薩」という表現をとったのではないかと思います。 そこに暗喩を駆使した巧みな法華経作成者の手法を見ることができるのです。 Tweet