2016年9月9日 投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年 9月 9日(金)01時42分4秒 通報 螺髪 さん >「わが己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて」、、、凡夫の己心の中にある「根本清浄」(=仏界)だとすると、 その意味が理解できます。 根本清浄の妙法蓮華経である「境」の当体の「御本尊」と、「智」である己心が「境智冥合」し、初めて仏性の 南無妙法蓮華経が湧きだし、根本清浄の「処」となるということです。 「清浄」とは「信」です。私たち凡夫にとって「清浄」は「信」しかありません。そしてその「信」のために、 大聖人は「御本尊」を現して下さった。 「如蓮華在水」。「蓮華の水に在るが如し」(法華経従地涌出品第十五)。蓮の華が汚泥の中でこそ、むしろ綺麗に 咲き誇ることの喩えです。汚泥なのに蓮の中は「清浄」です。< などなど、全部賛同いたします。 いくらかの部分は私の知識ではよくわからないところもあり、どういう風に書こうかと思っていましたが、 私の思う範囲内で、又、思いっきり書いてしまいました(笑) 「根本清浄」 「俯瞰(ふかん)」「方等(ほうとう)」について、、とありましたが、「根本清浄」が 「俯瞰(ふかん)」と「方等(ほうとう)の性質をもっているということで(あってますか?) きょうは、基本的に、「根本清浄」について他の宗教との比較を交えて書かせてもらいました。 私も、生命を善導するもの、、「万能ー完全性」「愛ー慈悲」などを要素として「根本清浄」を担っている 絶対的な基盤を持つ生命の場を依処としなければ、やはり人生における絶対的な価値が生み出されること自体 がかなり難しいと思います。 そして、大聖人の仏法の独自の「根本清浄」の思想は、更に他の多くの思想を凌駕していると私は見ています。 Tweet