2016年9月7日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 9月 7日(水)12時40分56秒 通報 そのようなキリスト教思想に対してマルクス(ドイツ出身の哲学者)は、 貧困になる原因は資本家に搾取された結果であって、 経済的要因からきているにも関わらず、そこから目をそらさせ、 精神的、神秘的な問題にすり替えて、合理的な判断を狂わせる役割(キリスト教)を 果たしてきたとして「宗教はアヘン(麻薬)である」と痛烈な言葉を発しました。 確かにマルクスが主張するように、今まで キリスト教の思想はいろんな意味で体制擁護に利用されてきたわけです。 マルクスの〝宗教はアヘンである〟という主張は「ヘーゲル法哲学批判」の中で述べていますが、 初期における彼の研究対象であったヘーゲル法哲学はキリスト教を抜きにしては考えられないことでした。 彼は研究が進むにつれて、キリスト教が歴史的に 社会に果たした役割について疑問を持つようになったのです。 ちょうどその頃(一八四〇年代)、ドイツの町には失業者が溢れ、 労働者の苦しみには目を覆いたくなるものがありました。 こうした背景のなかで、マルクスの目には 「キリスト教ではこの社会の矛盾を解決することはできない。むしろ、 現実の矛盾から目をそむけ、一時的な精神の安らぎを求めているにすぎない。 それではかえって害になる」と映ったのでしょう。 民衆が非人間的な階級支配の道具として利用され、 合理的な考え方から遠ざけて幻想の世界へ導いていったキリスト教に対し 〝宗教はアヘンである〟と非難したマルクスの主張は、非常に的を突いた言葉だったと思います。 これと同じように、日本においても念仏の 〝浄土思想〟が徳川封建体制下で、実に巧みに利用されてきました。 これら二つに共通していえることは、現実社会の抑圧や人生の苦悩に対して、 民衆がこれらから〝脱出したい〟と渇望しても〝この世では実現できそうもない〟という 現実逃避の思想が生命の底流にあり、それがあきらめの気持ちを人々にもたらしているということです。 その意味において、宗教はアヘン的な性格をもっており、その思想自体が宗教の無力さを証明しているといえます。 Tweet