投稿者:無冠 投稿日:2016年 9月 6日(火)05時19分18秒   通報
全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。

2008-4-5 【第2総東京最高幹部協議会 ②】
● 歩きに歩いた
一、大聖人は、遠方まで、はるばる御供養をお届けした弟子の信心を、こう讃えておられる。
「たとえ志はあっても、行動にあらわすことは難しい。そうであるのに、今、あなたが志をあらわされたのを見て、その信心が並大抵でないことが、わかります」(同1554ページ、趣意)
さらにまた、御書にはこう記されている。
「一切衆生が法華経を誹謗して(不幸の道を)流転するのを見抜いたゆえに、(それをとどめるために)日蓮が日本国を経行して(=歩いて)南無妙法蓮華経を弘通している」(同816ページ、通解)
釈尊とその弟子たちも、歩きに歩いた。
大聖人とその門下も、歩きに歩かれた。
牧口先生も、戸田先生も、歩きに歩かれた。
「広宣流布のために、常に行動していく人は、まことの大聖人の門下であられる。これこそ、学会にあっては私の真の弟子である」
この戸田先生の指導のままに、私も、行動に徹してきた。世界中を動き、走ってきた。
この「行動」によってこそ、太陽の大仏法は、世界190カ国・地域にまで正しく伝えられ、広まってきたのである。
戸田先生は、「誠意、誠実といっても、行動がともなわなければ、何にもならないぞ」とも、よく言われていた。
私も「行動」しか信じない。いな、「行動」しか信じられない。
大聖人は御書の中で、法華経法師品の次の文を何度も引いておられる。
「よくひそかに一人のためにでも、法華経、乃至はその一句だけでも説くならば、まさに知るべきである。この人は如来の使いであり、和来から通わされて、如来の振る舞いを行じているのである」(同1359ページ、通解)
妙法を語り、弘めゆく「行動」こそが、仏に連なる道である。これは永遠に変わらざる法理である。

青春を 悔いなく飾れや
自らが 人間錬磨の 行動起こして

清き心で行動を続ける、白蓮グループの友に贈った一首である。

■ 広宣流布を妨げる悪に対して、ずる賢く沈黙したり、傍観したりすることは、それ自体が悪に通じてしまう。
御書には仰せである。
「法華経の敵を見て、世をはばかり、世を恐れて黙っていたら、釈尊の敵となってしまう。どんな智人・善人でも必ず無間地獄に堕ちる」(同1412ページ、通解)
この戒めを、ゆめゆめ忘れてはならない。
仏法破壊の悪人とは、「言論の剣」で、断じて戦い抜いていくことだ。

● 「同体異心なれば諸事叶う事なし」
一、仏法の世界が、なぜ美しく、深く、強いのか。それは「異体同心」という究極の団結があるからだ。
絶対勝利の4原則の第三は、「異体同心」である。これこそ、広宣流布を成就させる要諦だといえよう。
異体同心の組織は、必ず発展する。反対に”同体異心””異体異心”の組織は、必ず衰退する。
「異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なし」(同1463ページ)とは、永遠に忘れてはならない大法則であり、黄金律である。
勝負は、ひとえに異体同心の組織をどう築いていくかにかかっていると言っても、決して過言ではない。

● 「水魚の思」で
一、幾たびも拝してきた御文だが、「異体同心事」の甚深の一節を、重ねて生命に刻んでまいりたい。
「一人の心なれども二つの心あれば其の心たが(違)いて成ずる事なし、百人・千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず、日本国の人人は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし、日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし」(同ページ)
異体同心の団結があれば、必ず広宣流布できる、必ず勝てるとの大確信であられた。
有名な「生死一大事血脈抄」には、こう説かれている。
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か」(同1337ページ)
広宣流布は魔軍との戦いである。
どんな金城鉄壁の城も、1カ所、どこかに隙のある場所、弱い場所があれば、そこから敵に攻め込まれてしまう。
いわんや、城の中に「異体異心の者」がいれば、魔にたやすく城を撹乱される。
この御文に続けて、「剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」(同ページ)と仰せの通りだ。
あの熱願の法難(弘安2年=1279年)の前年に、大聖人が「くれぐれも、駿河の人々は、皆、同じお心でおられるように、とお伝えください」(同1479ページ、通解)と強調されたことを、深く拝していかねばならない。
戸田先生も、「団結第一でいけ!」と徹して訴え抜いておられた。
また、「御書にあるように『自他彼此の心なく』異体同心であってこそ、生死一大事の血脈、仏になる血脈を継いでいるのだというのです」とも語られた。

● 「名聞名利」の輩を追い出せ
一、さらに、「異体同心」を固める重要な点がある。それは「城者として城を破る」動きを許さぬことだ。
師子身中の虫である「異体異心の者」と徹して戦い、その魔性の根を断ち切っていくことだ。
戸田先生は厳命なされた。
「いかなる幹部であろうと、広宣流布を忘れ、自己の名聞名利で、自己の派閥をつくろうとする人間には、断固として、幹部が団結し、自分勝手な利己主義の輩を追放せよ」
“戸田の命より大切”と言われた、この創価学会の和合を、未来永遠に護り抜く。
広宣流布の命脈は、この一点にあると訴えておきたい。

千万の
誉れも高き
同志かな
異体も同心
永遠に不滅と

●永遠に『弟子の道』『不二の道』を征け
一、「異体同心」の前進のために、一番、肝心なことは何か。それは「師弟不二」で生き抜くことだ。
「師弟不二」こそ、「異体」を「同心」たらしめる要諦である。それが絶対勝利の4原則の第四点である。
日蓮大聖人は、油断ならない状況のなかで信心に励む池上兄弟の二人に、こう教えられた。
「こう言うと恐縮ですが、お二人がともに日蓮のことを(師匠として)尊いと思い合わせていきなさい。もし二人の仲が不和になられたならば、二人に対する(諸仏・諸天等の)加護がどうなってしまうかと考えていきなさい」(御書1108ページ、通解)
一人一人が、師と心を合わせ、広宣流布に前進する決意を深めていった時に、初めて異体同心の団結が固まる。そこにこそ、妙法の功力が燦然と発揮されていくのである。
さらに御書を拝したい。
「師弟相違せばなに事も成べからず」(同900ページ)
「日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ、さだにも候はば釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし」(同988ページ)
「もし法師に親近するならば、速やかに悟りの道を得るであろう。この師に従って学ぶならば、恒河の沙の数ほどの仏にお会いできよう」(同1070ページ、通解)
「弟子と師匠とが心を同じくしない祈りは、水の上で火を焚くようなものであり、叶うわけがない」(同1151ページ、通解)
「法華経の大海のような智慧の水を受けた根源の師を忘れて、よそへ心を移すならば、必ず地獄等の六道の迷苦の生死を経巡るという災いにあうこととなろう」(同1055ページ、通解)一つ一つの御金言に明確なように、仏法の極意は「師弟」にあるのだ。

一、日興上人は仰せである。
「この大聖人の法門は、師弟の道を正して、成仏していくのである。
師弟の道を、少しでも誤ってしまえば、同じく法華経を持っていても、無間地獄に堕ちてしまうのである」
「師弟不二」にこそ、成仏を決しゆく根幹がある。そして「師弟不二」にこそ、広宣流布を永遠たらしめる大道がある。
これまでも論じてきたように、日興上人と、違背の五老僧を決定的に分けた点が、「師弟不二」であった。
日興上人は、日蓮大聖人を「末法の御本仏」と正しく拝し、あくまでも自身を「日蓮大聖人の弟子」と誇り高く称されていた。
それに対して、五老僧は、権力に媚びへつらい、弾圧を恐れて、愚かにも、「天台沙門」と名乗った。さらに、大聖人が庶民のために仮名まじりで記された御手紙などを、師の恥であるといって、焼き捨てたり、すき返したりした。
日興上人御一人が、この仮名まじりの御書を大切に護り、未来に翻訳して、中国やインドなど世界へ伝えていくことまで、御心に定めておられたのである。
〈日興上人は「日本の大聖人の金言も、広宣流布する時は、また仮名文字を翻訳して、インド、中国に流通すべきである」(御書1613ページ、通解)と仰せである〉
「師弟不二」を厳粛に貫き通された日興上人と、師弟に徹しきれなかった五老僧の違いは、あまりに歴然としていた。
広宣流布は「師弟不二」であってこそ成し遂げることができるのである。
「師弟」という柱がなければ、たやすく自分の感情に流され、時代の状況に流されてしまうからだ。「師弟」がなければ、難に直面したとき、あまりにも、もろく崩れ去ってしまうからだ。
大聖人の御入滅後、日興上人の峻厳なる師弟不二の大闘争は、半世紀以上に及んだ。
その烈々たる執念の破邪顕正の法戦によって、五老僧の邪義は、完壁に打ち破られたのである。
戸田先生が逝去されて50年──。
私は、先生の直弟子として、一点の曇りもなく、万年に輝きわたる「弟子の道」「後継の道」「不二の道」の規範を打ち立てることができたと確信している。

師子王と
なりて今世を
勝ち征かむ
師弟不二なる
大道歩みて

創価の師弟不二の完勝を、私は、第2総東京をはじめ全世界の同志とともに、晴れ晴れと宣言したい(大拍手)。

● 「常楽我浄」の生命の旅路を
一、トルストイの生命観に──
「生命は死によって滅びるものではなく、形を変えるだけである」(北御門二郎訳『文読む月日』ちくま文庫)
「もし生が──幸福であるならば、生の欠くことのできない条件である死もまた幸福である」(小沼文彦編訳『ことばの日めくり』女子パウロ会)
「他者を助け、できる限りのことを為したとの実感があれば、死さえも、苦しみではなく、歓喜となる」と。
私が、ハーバード大学での2度目の講演(1993年)で論じた「生も歓喜、死も歓喜」という生死観とも響きあっている。
この私の講演を基軸として、今、アメリカでは、最高峰の知性の先生方が考察を深めてくださっている。
ともあれ、世界は、大仏法の哲理を志向している。
この「常楽我浄」の生命の旅路を、さらに誇りも高く、ともどもに、明るく朗らかに、そして、勇敢に堂々と進みゆくことを決意しあって、私の記念のスピーチとしたい。ありがとう!(大拍手)