【北海道夏季研修会 平成三年八月十七日(大作全集七十八巻)】

投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月12日(金)09時21分44秒 返信・引用

御流罪の地・佐渡から鎌倉へ帰られる途中、越後(現在の新潟県)の地で、大聖人は一首の和歌を詠まれている。
「おのずから・よこしまに・降雨はあらじ・風こそ夜の・?(まど)をうつらめ」(御書一四八六頁)
――雨がおのずから横なぐりに降ることはない。風が吹くからこそ、雨は横なぐりに降って、夜の窓を打つのです――。

現存する大聖人の御歌は、数多くはない。
御書に残っているのは、この御歌を含めて二ヵ所、三首である。(もう二首は「妙心尼御前御返事」〈御書一四八二頁〉に)

この御歌の心は、さまざまに受け取れる。
一説には、悪知恵に動かされる凡夫の哀れさを教えられたのではないかといわれている。

さらに御書をとおして申し上げたい。
人間の不幸の原因はどこにあるのか。大聖人は、その根源は邪宗・邪義にあると叫ばれた。
そして「一切衆生を救うのは、日蓮のみである」と宣言されて、大聖人こそ、末法の「法華経の行者」であると示された。

それに対して、身の程を知らぬ「慢心」である、との批判が巻き起こった。大聖人を見くだしての、それこそ大慢の誹謗であった。

大聖人のお言葉は、「慢」に一見、似ていたとしても、決して慢ではない。
仏法の道理にのっとった真実であり、大確信であって、いわゆる「法華の慢」というべきものである。

そこには、傲り高ぶって、人を見くだしたり、己を誇るといった、低次元の感情など、少しもない。
正法を宣揚され、御自身の立場と使命を明確に示されたのみである。

大聖人は、「顕仏未来記」において、経文に照らして、末法の法華経の行者は御自身以外にはないとされ、御自身が、出現されなければ、仏語が虚妄になるところであった、と言いきられている。

その大確信に対して、低劣な批判者たちは「大慢の法師」(御書五〇七頁、以下同じ)であると悪口した。
こうした誹謗にも、大聖人は「我が言は大慢に似たれども仏記を扶け如来の実話を顕さんが為なり」
――私の言葉は、大慢に似ているように思えるかもしれないが、それは、仏の未来記を助け、如来の言葉が真実であることを顕すためである――と破折されている。

たとえ慢心のように思われてたとしても、仏語の真実を証明するためには、言うべきことは断じて語っておかねばならない――大聖人の御胸中には、余人のうかがい知れない、崇高な使命感が脈打っていたと拝される。

さらに大聖人は、「汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす豈大悪人に非ずや」
――あなたは、(法華経の行者である)日蓮を誹謗しようとして、仏の未来記を虚妄にする者である。それこそ、大悪人ではないか――と、鮮やかに切り返され、厳しく責められている。

正法の正しき実践者を怨嫉して、「慢心」とか、「驕慢」などと誹謗し決めつけ、広宣流布を阻む者こそ、大悪人であるとの御指摘である。

今、私どもの立場でいえば、大聖人の仰せの通りに信行に励み、ここまで世界広布を推進してきた事実を、誇りをもって言いきることは、決して、いわゆる「慢」にはあたらないのである。

「事実」はどこまでも「事実」である。
現代において、創価学会の出現がなければ、大聖人の一閻浮提広宣流布の予言が虚妄になるところであったことは、だれ人も否定できない。

このまぎれもない事実の姿を、否定し、誹謗する者こそ、御本仏の未来記を虚妄にする大悪人なのである。
どうか皆さまは、この確信をいよいよ強くいだきながら、大聖人の正義、学会の正義を語りぬいていただきたい。

大聖人は敢然と「悪」と戦われた。
真実の門下である私どもも勇んで戦わねばならない。
臆病な沈黙は、それ自体、敗北である。
広宣流布を破壊する大悪、極悪との戦いに勇んで立ち上がった人こそ、極善の大功徳の人生となる。

【北海道夏季研修会 平成三年八月十七日(大作全集七十八巻)】