投稿者:無冠 投稿日:2016年 8月31日(水)06時23分17秒   通報
全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。

2008-1-29 【各部合同協議会 ②】

● 恩師の遺命の実現へ奔走
一、昭和三十四年(1959年)九月二日、三十一歳の私は、日記に次のように綴った。
「一日ごとに、老若の差が開かれていく─。先輩よ、牧口先生のこと、戸田先生のことを、もう忘れたのか、と激怒したかった。
自己保身、それよりも、王仏冥合、広宣流布の建設と、恩師の勝利の実証を第一義として、総て考えゆくべきだ」
戸田先生が亡くなられて、約1年半。年配の幹部の中には、師の指導を早くも忘れ、広宣流布への情熱を失って、慢心に陥る人間もいた。
そうした中、私は総務として一人、学会の全責任を担って立ち、恩師の遣命の実現へ奔走していた。
戸田先生が逝去されたのは昭和三十三年四月二日。その直前の三月十六日の式典で、先生は、私たち青年に広宣流布の一切を託された。
本年は、この3・16「広宣流布記念の日」の50周年にあたる。
ここで、昭和三十二年の終わりごろから「3・16」までの師弟の闘争を、私の日記などをもとに、振り返っておきたい。
かいつまんでの紹介ではあるが、少々長くなるかもしれない。
しかし私は、特に青年の皆さんに、本当の師弟の姿を知っておいてもらいたいのだ。

●「必ず成し遂げます!」
一、昭和32年11月20日──。
戸田先生は、予定されていた広島行きを中止された。先生のお体を考え、私がお止めしたのである。先生は足に力が入らず、歩行すら困難な状況であった。
医師の診断では、肝硬変症とのことであった。
過度の疲労が重なり、黄疸と腹水を併発。全身衰弱が著しく、重篤な状況であった。
そのため絶対安静とされ、先生は、ご自宅で闘病に専念されることになったのである。
11月23日、私の妻が先生のご自宅へお見舞いにうかがった。その二日後、私は先生から「留守をしっかり守れ」との連絡をいただいた。

◆鍛えた者が最後に勝つ
◆『戸田先生』 苦労なくして人は育たない

30日、私は品川での本部幹部会の後、先生のご自宅へお見舞いにうかがった。少し元気になられたお姿を拝見し、安心したことを覚えている。
12月10日、私は再び先生のご自宅へお見舞いにうかがった。病状が好転されていることを聞き、本当にうれしかった。
先生に、一日でも長生きしていただきたい。広宣流布の指揮を執っていただきたい──それが弟子としての私の願いであり、祈りであった。
16日の午後には、戸田先生から電話でご指導をいただく。
あの人間には注意せよ! あの人間には厳重に指導せよ!──先生は、病床にあっても、未来のことを案じて厳しく語っておられた。
翌日の朝、私は先生のご自宅を訪れ、1時間にわたって指導を受けた。
この時、75万世帯を達成した後の目標についておうかがいした。
先生は、命を振り絞るようにして言われた。
「大作、あと7年で、200万世帯まで戦いたい。できるか!」
私は即座に、お答えした。
「やります! 必ず成し遂げます! 勇気百倍、断固、戦います!」
2カ月後、先生はさらに「7年で300万世帯」の目標を示してくださった。
この大目標も、私は4年後に達成した。
師匠が言われたことは絶対に成し遂げる。それが真実の弟子であるからだ。
年末の29日にも戸田先生のご自宅へ、あいさつにうかがった。先生は学会の将来について、こまごまと注意、指導をしてくださった。

●「10年間、苦難の道を歩みゆけ!」
一、年が明けて、昭和33年1月。先生は病気を克服しつつあった。
しかし、2年間の獄中生活をはじめ、長年にわたって酷使を重ねてきた肉体の衰弱は、いかんともしがたいものがあった。
先生は、ご自身に残された時間をご存じであったのであろう。
「もし私が死ぬようなことがあったら──」と言われ、連日のように、大切な指導をしてくださった。
17日には、学会本部で先生から、人事などについて注意をいただいた。
その翌日、私は3月の総登山の運営に関して、首脳が現実を掌握せず、現場の青年たちが苦しんでいることを、先生にご報告した。
先生は、厳然と言われた。
「やりづらくとも、君たちが、学会を支えてゆくのだ」と。
“青年の手で新しい学会をつくれ! 君たちが次の時代を開くのだ!”との深きお心であった。
2月13日の夜、私は先生のご自宅へうかがった。
先生より、
1.学会青年部の未来性への指示
2.学会幹部の指導原理
3.仏法と社会への指向
4.学会の究極の使命
について、種々、お話をいただく。
2月19日にも、先生のご自宅へ。私が3月から学会本部の職員となることについて、先生は「君の本部入りは天の時だ」と語られた。
また、「十年間、苦難の道を歩みゆけ」と厳愛のご指導をいただいた。
さらに2月22日、先生は師子吼された。
「阿諛諂佞(あゆてんねい)の輩(口先巧みにへつらう、邪な心の人間)は全部切る!」
「組織を乱しゆく者、信心利用の者も、また同じである」と。
未来を見すえての、遺言のごとき、烈々たる叫びであった。

『大詩人タゴール』
◆君の心を束縛するすべての鎖を断ちきって前に向かって突進せよ

●次の50年を託す
一、そして3月。
私は、20万人総登山の運営の全責任を担った。
1日、戸田先生とともに、学会が建立した大講堂の落成の式典に出席。終了後、エレベーターの中で、先生は私をじっと見つめて言われた。
「これで、私の仕事は終わった。私はいつ死んでもいいと思っている。大作、あとはお前だ。頼むぞ!」
電撃が私の五体を貫いた。
5日。大阪事件の裁判で関西に向かうため、私は戸田先生にごあいさつ申し上げた。
先生は言われた。
「君は罪を一身に背負おうとした。本当に人の良い男だな。でも、だからこそ安心だな、学会も」「最後は勝つ!」「真実は、必ず明らかになる。堂々と、堂々と男らしく戦え!」
先生は、私の苦衷をすべてわかってくださっていた。本当にありがたい師匠であった。
どんなことがあっても、必ず裁判に勝利して、先生にご報告をするのだ──私はそう固く心に誓った。
このころ、戸田先生に対して、ある青年都幹部が「これからの学会は、何を敵として進んでいけばよいのでしょうか」と質問をした。
先生は、厳しく言われた。
「敵は内部だよ」
この質問をした幹部は、後に名聞名利に信心を食い破られて退転し、学会に反逆した。先生は、その本質を鋭く見破っておられたのである。
そして3月16日──。
広宣流布の模擬試験となる儀式が、晴れやかに行われた。
式典には、時の首相が参加する予定であったが、残念ながら出席できなくなった。代理として首相の夫人と娘婿らが参加してくださった。
式典の司会を務めたのは私であった。
戸田先生のお体は、すでにかなり衰弱しておられた。しかし、全生命を振り絞るようにして、男女青年部を前に話をされた。
そして、「創価学会は、宗教界の王者である!」と高らかに宣言されたのである。
3・16の儀式については、これまでもさまざまな形で語ってきた。
この日、戸田先生は、私を中心とした青年たちに、広宣流布の一切を託してくださった。
それから50年。今、私は、だれよりも信頼する青年部の諸君に、広宣流布の「炎のバトン」を託したい。
若き君たちに、雄々しき師子となって、次の50年の勝利を開いていってもらいたいのだ(大拍手)。

● 一騎当千たれ!
一、「きょうは大事な協議会である。そして、学会が一段と発展していけるかどうかの分かれ目が「今」である。
この時に、心に隙があれば、大きく崩れてしまう。今いる皆さんで、未来は決まる。ゆえに、断じて手を抜くことはできない。
未来のために、もう少々、語っておきたい。
学会は、大きく発展した。これだけの世界的な学会になった。盤石な土台ができ上がった。
その上に見事な大建築をつくり、広げていくのは、若き君たちである。
すべては「人」で決まる。これからの「人材」で決まる。
一人一人が一騎当千の将となって、世界一の大人材城を築いていただきたい(大拍手)。

●若々しい声で
一、リーダーは、声一つ、言葉一つで、皆に勇気と希望を与えていくのだ。
覇気のない、枯れ果てたような声では、だれも感動しない。
「春が来た!」「いいな!」と感じさせるような、生き生きとした声で、同志を鼓舞していっていただきたい。
妙法を持つ我々は、年齢には縛られない。年を重ねても、若々しく、福徳を増しゆく不可思議の法であるからだ。

● 全員が責任者!
「リーダーは、「全員が会長」「全員が広布の最高責任者」との深き自覚に立っていただきたい。
これまでも、どんな嵐にも揺るがず、わが地域の同志を守り抜き、道なき道を切り開いた庶民の王者がたくさんおられた。その方々のおかげで、学会は、もっているのだ。
今や、世界190カ国・地域に広がる創価の大連帯である。
中核となる人材を、100人、1000人と、今、つくっておかなければ、大変なことになる。
中国の古典『書経』に、「指導者の心得」が記されていた。
「不測の事態に対する備えを怠らない」
「安逸に流されない」
「すぐれた人材を登用し、信頼して仕事をまかせる」
「悪に気づいたら断固取り除く」
〈守屋洋・守屋淳著『中国古典の名言録』東洋経済新報社)
すべてのリーダーが心に刻み、実行していっていただきたい。

● 「師を求めれば王者となる」
一、キューバ独立の父ホセ・マルティは綴った。
「行動力は若さの象徴である」(柳沼孝一郎・青木康征訳『ホセ・マルティ選集第2巻』日本経済評論社)
行動しなければ、人も、団体も、伸びない。学会は、行動し抜いてきたからこそ、すべてに晴れ晴れと勝ってきたのだ。
中国の『書経』には、「能く自ら師を得る者は王たり」──「自分から師とすべき人を求めえたものは天下の王者」となれるともあった(小野沢精一著『新釈漢文大系26 書経(下)』明治書院)。
反対に、師を求めようとしない人間には、成長も、進歩もないであろう。
戸田先生は私に、「お前は、本当に師匠を大事にした。王者だよ」と語ってくださった。これこそ、わが青春の誉れである。
戸田先生との思い出は尽きない。
戦後間もないころ、学会はまだ小さかった。一番大変だったその中で、
私は先生に、「将来必ず、学会を世界的に大きくします!」と申し上げた。
弟子の誓いに、先生は涙しておられた。
肺病の私を心配され、「俺の命をあげたい」とまで言ってくださった先生である。
この先生の心があったから、私は戦えた。
師弟があったから、学会は勝ったのである(大拍手)。
次は、君たち青年の番だ。青年部に、一切を託したい。
役職が上だから偉いのではない。信心で決まる。行動で決まる。青年が、下から上を動かしていくのだ。
そのためにも、若き諸君が、学会精神を忘れることなく、しつかりと戦い抜くことである。こんなに素晴らしい団体はないのだから。
未来は、すべて若き皆さんにかかっている。よろしく頼むよ!
〈会場から「ハイ!」と力強い返事が〉
きょうは長時間、本当にありがとう!(大拍手)