投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 2月 3日(火)19時10分14秒  

会則改正の一番の問題は、「なにがなんだかよくわからない」というカオスを生んだことだと思う。
もっともらしい説明+宗門への嫌悪感によって、9割の学会員は、ごまかすことができるが、1割の学会員は、ごまかしきれない。それが現在の状況ではないか。

真筆本尊も書写本尊も、すべて本門の本尊という解釈となり、御本尊のフラット化が行われ、その中でも学会(執行部)が認定したものを本尊として採用するとし、戒壇の大御本尊は除外された。これは言い換えれば、時の執行部の裁量次第で、御本尊を変えることもできるし、大誓堂の御本尊を大御本尊と認定することもできるでしょう。

従来の大御本尊観は世界広布の妨げとなるというのは、正確に言うと、創価学会執行部にとって都合が悪い、ただそれだけのことではないか。別に従来のありかたで困っている人はいないでしょう。むしろ、あくまでも大御本尊を盾にし、やりたい放題の宗門という構図を維持し、創価学会は大御本尊に連なる信心をし、日寛教学を遵守する。故に正統法主である日寛書写本尊を採用しているという形でよかったのではないか。宗門が、土下座して「破門したのは間違いでした」と、非を認めるまで責め続けるほうが理に適っていたのではないか。

御本尊をフラット化すると、結局誰が書写してもよいことになり、本尊雑乱の要因にもなりかねないし、御本尊軽視の団体へと変貌してしまう。それを防ぐために、大御本尊に連なる法主が書写した本尊のみを正しい本尊としてきたのではないのか。

執行部の腹の底を推測するに、大誓堂を建立したことにより、大御本尊が邪魔になった。両雄並び立たずであり、蜂の世界でも新女王が誕生したら、旧女王は殺される運命にある。それと同じように、旧来の女王である大御本尊を消滅させない限り、新女王である大誓堂の御本尊を大御本尊という位置づけにできない。そして、大御本尊観も、旧来の分身散体という原理を廃し、新しい大御本尊観(広宣流布の象徴的な意味合い)を樹立すること。それが狙いなのではないか。

最も足枷となるのは、僧俗和合時代の創価学会であり、戸田先生の指導ということになるでしょう。宗門との決別というよりも、過去の創価学会との決別。それを推進しようとしているのではないでしょうか。

そして、大誓堂の本尊を大御本尊と定めることができたならば、世界広宣流布の中心の地として、日本が指揮を執ることができる。そういう方向に持っていくのが狙いなのではないか。元々、本部のインフラ整備だったはずが、いつの間にか創価学会版正本堂チックな建物を建立したのには、度胆を抜かれた。形式を廃し、実質主義を採用してきた創価学会が、この期に及んでハコモノを建てたことには驚いた。「21世紀にそれ必要ですか?」と。大誓堂はあってもなくても、はっきりいってどっちでもいい建物施設であり、聖地化する必要も特にないでしょう。

会則改正の一連の流れの中に、本部(執行部)への権威付けという邪な考えなどありませんよね。歴史を紐解けば、富士門流を衰微させ、分裂させたのは偏に、弟子の「教義理解が浅かったこと」「私利私欲にかられたこと」、この二点が挙げられます。
聡明な執行部が、まさかそのような、愚かなレベルに堕していないことを信じるものであります。