• 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2016年 7月13日(水)02時09分54秒

「ぎようどうふぎようどう」<げ>   とうこうしや:らほつ
「せいめいのせいき」へのこうさつ
「ぎようどうふぎようどう」<げ>
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$$ 「さんじよう」といってもほとけのきようちとはてんちうんでいのさがある!
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すこしこみいったおんふみのてんかいになりますが、こんなおおせがあります。
「だいようらくきようにはもくがのにぞうはしようしんのほとけには・をとれりととけり、もくがのにぞうのほとけのまえにきようをおけば32そうぐそくするなり、ただこころなければ32そうをぐすれどもかならずほとけにあらずにんてんも32そうあるがゆへに、もくえの31そうのまえにごかいきようをおけばこのほとけはりんのうとひとし、じゆうぜんろんというをおけばたいしやくとひとし、しゆつよくろんというをおけばぼんのうとひとしまつたくほとけにあらず、またもくえにぞうのまえにあごんきようをおけばしようもんとひとし、かたとうはんにやのいちじいちえのともはんにやをおけばえんかくとひとし、けごん・ほうとう・はんにやのべつえんをおけばぼさつとひとしまつたくほとけにあららず」もくえにかいげんのごとP468。

せいりしてみます。
ちゆうごくのだいようらくきようには、もくがのにぞうはしようしんのほとけにはおとっているとといている、そのもくがのにぞうのほとけのまえにきようをおけば32そうをぐそくする、ただしこころなければ32そうをぐしてはいるがかならずしもほとけではない、にんてんも32そうがあるからである、と。32そうはほとけやてんりんじようおうがそなえるすぐれたそうで、にんてんにもあります。
このあとです。
31そうのまえに「ごかい」をおけば「りんおう」の「ひと」とひとしい、「じゆうぜん」をおけばてんかいのなかの「たいしやく」とひとしい、「しゆつよく」をおけばおなじくてんかいの「ぼんのう」とひとしい、だが「ほとけ」ではないとおおせです。あえていえば、「じゆうぜん」は「しきかい」に、「しゆつよく」は「むしきかい」になるといえるでしょうか。

あとにのこるのがしようもん、えんかく、ぼさつのさんじようです。
もくえにぞうのまえに「あごんきよう」をおけば「しようもん」、「いちじいちえのぐはんにや」をおけば「えんかく」、「けごん・ほうとう・はんにやのべつえん」をおけば「ぼさつ」となる、とあります。
「あごんきよう」とはしようじようきようです。「ほうき」のいみもあります。「しようもん」となります。「ぐはんにや」はだいぼさつのみがしよじする「ふぐはんにや」のはんたいで、「いちじいちえ」とあるように「あるしゆんかん」のさとりで「えんかく」となります。

「けごん」は「だいほうこうぶつけごん」のりやくですし、「ほうとう」はほうせい、びようどうなおしえの「だいじようきよう」いみし、「べつえん」は「ぼさつのためにといたおしえ」で、いずれもじかんとくうかんをこえた「ちえ」のりよういきをいみします。しかし、それでもまだ「まつたくほとけにあらず」です。
「さんじよう」といっても、やはり、ほとけのきようちとはてんちうんでいのさがあるということです。

またこんなごもんもあります。
「さんあくならびにむげんだいじようにおちてそのくをつぐのひてにんちゆうてんじようにはうまれたれどもそのつみのよざんありてややもすればしようほうをぼうじちしやをののしりつみつくりやすし、れいせばしんしはあらかんなれどもしんにのけしきあり、ひつりようはけんじをだんぜしかどもまんしんのかたちみゆ、なんだはいんよくをだんじてもによにんにまじわるこころあり、ぼんのうをだんじたれどもよざんありいかにいわんやぼんぷにをいてをや」ぜんむいさんぞうしようP885。
「しんし」はしやりほつのことでしようもんにあたり、「しんに」がぼたいのじごくのえんちようせんじようにあるし、「ひつりよう」はけんじをだんじたものの「おろか」の、「なんだ」は「むさぼり」のえんちようにあるとみてとれます。
やはり、ほとけとはおおちがいなのです。

ろくどうにあって「さんぜんどう」にひらくか、「さんあくどう」にとどまるか、またじつかいにあっては「しせい」をひらくか、それとも「ろくどうりんね」にとどまるかの「かぎ」は、ひとえに、そのかたわらにある「こころのほう」によるということになります。

「こころこそたいせつにそうろうへ」せんにちあまごぜんごへんじP1316です。

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$$ たしやのじがをものりこえさせるぼさつへのてんかん!
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みずからのこうふくをねがうことだけのしようもんからたしやのこうふくをもねがうしようもん、みずからのさとりをひらくだけのえんかくからたしやのさとりをもひらくえんかく、じがをのりこえるだけのぼさつからたしやのじがをものりこえさせるぼさつへのてんかん。それこそが「しん」の「ぼさつ」といえるのかもしれません。
にんげんは、「かい」をたもつことからしゆつぱつし、ないはつてきなものにささえられて、そこにしんの「よろこび」をみいだし、「ほうき」=りつをたどってじつぽうの「ほうとう」をちかくし、「じかんとくうかん」をのりこえて、やがてじんちのこんげんをみることになる、と。

さて、いまのそうかがつかいしつこうぶも、ぼうとうの「ぎようどう」をはずすろせんをひたはしりつづけているといわざるをえません。しゆだつそうたい、ほんじやくそうたい、ごんじつ・だいしようそうたいどころか、ないげそうたいをもふみはずすげどうろせんです。
ようするに「ぶつぽういはい」です。だからこそ、ごじゆうのそうたいも、ごじはちきようもすてさろうとしているとふかんできます。
「ほしん」にはしりはじめだしたからです。「ほしん」は「むさぼり」です。「がき」です。いだいなしどうしやがじんとうしきをとらなくなって、じぶんたちがいかに「ひりきか」をおもいしったにちがいありません。だからこそ、そのうんえいをこともあろうにしじようちようさかいしやにまかせることにしたのです。まかせれば、すくなくともじぶんたちの「けつかせきにん」はとりあえずかいひできます。こういうのを「ひきよう」というのです。

せかいも、にほんもいま、あらゆるそしき、だんたいで「あんしん」のための「とうごう」のうごきがでています。いつぽうで、「ぶんだん」のうごきもおきています。
「ぶんだんととうごう」は、「かいとごう」のしようじのにほうです。おおきくなっておおきくなって、そのそんざいをきよだいかしていった“きようりゆう”は、わずかなちきゆうかんきようのへんかにもてきおうできずしにたえてしまいました。びさいかもやがて、しようしつのうきめにあうでしょう。だからこそ、たしかなる「ぶつぽうしかん」をもった「ぎようどうのみち」をしめすことがきんきゆうのようせいなのです。

ざんねんながら、しつこうぶは「ほしん」のみちをえらんでしましました。そのための「かいそくのかいてい」、「かいけんのせつてい」とみざるをえません。とりわけ、いけないのが、いわれなきかいにん、いわれなきじよめい、いわれなきかつどうていしの“ぼうきよ”です。これは、あきらかな「じんけんしんがい」です。このいつてんで、わたしなんかは「ふしん」をけつていてきにしてしまいました。
「いちわりはのこる」などとうそぶいておられるようですが、だいいちじしゆうもんもんだい、だいにじしゆうもんもんだいのときとおなじとかんがえるのはじだいさくごもはなはだしい。いけだせんせいがじんとうにたたれなくなって、いま、「おかしい、おかしい、おかしい」のこえがひましにつのってきています。“いつしよくそくはつ”のじようたいだとみたほうがいいですよ。

どなたかが、しつこうぶのめん々めんのすうねんまえのぜいむしよのしんこくしよとくをけいさいされました。「すでにしゆうかんしにのっていたこと」などというとうこうもありました。
ちがうのです。がつかいいんは、しゆうかんしのきじにたいするあるしゆの“じこセーブ”ははたらかせていますが、ぜいむしよのこうひようすうじとなると“きやつかんせい”がかくだんにたかくなります。じじつとうらづけられるからです。だからこそ、わたしは「このとうこうはおおきい」としました。
メディアがどくじしゆざいや、いちじじようほうにこだわるのもこのためです。
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$$ じんとうしきのじだいは「ほこり」をもだいていた!
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いまも、がつかいかつどうのかなりのぶぶんに“ボランティア”がうずまいています。しえんかつどうだって、そのほとんどが“ボランティア”ではないですか。その“ボランティア”に、いけだせんせいがじんとうしきのじだいは「ほこり」さえもいだいていたものです。
「いうことをきかない」からと、きって、きって、きって、どれだけのことができるでしょうか。「あたまをひやしなさい」とだれもがかんじることです。
いまのしつこうぶは、「ぎようどう」のみちも、「にんげんのみち」もふみはずしているといわざるをえません。

ルソーのエミールのこんないつせつがあります。
「にんげんよにんげんてきであれ!
ばんぶつをつくるもののてをはなれるとき、すべてはよいものであるが、
にんげんのてにうつると、すべてがわるくなる。
にんげんはきよういくによって、つくられる。
=りやく=
しぜんを、かんさつするがいい。
そしてしぜんがしめしてくれる、みちをいくがいい。
しぜんはたえず、こどもにしれんをあたえる。
あらゆるしれんによって、こどものたいしつをきたえる。
にんげんよ にんげんてきであれ。それがあなたがたのだいいちのぎむだ。
あらゆるかいきゆうのひとにたいして、あらゆるねんれいのひとにたいして、
にんげんにむえんでないものたいして、にんげんてきであれ」。
《・ややではあります》
みやくらくはありませんが、「そら」をみることは、「ぶつしよう」にちかい。「あおぎみるこころ」に「ほつしよう」や「ぶつしよう」はあるようです。「そら」はけちゆうの「くう」につうじます。「くう」は「ほうしん」です。「はんにや」です。「ちえ」です。「ちえとはなむみようほうれんげきようなり」とのおおせがひびきます。「そら」は「きぼう」ではないでしょうか。「ゆうき」ではないでしょうか。

ろんりやどうりは、ひとにかたるにはふかけつなものですが、それは、かんじようにまでにたかまるものになっていないと、とてもあくせのげんだいではひとをひっぱれるものとはなりたりえません。いま、うちひしがれているそのときにこそ、いだいなるものはでます。「ぶんしんのおこるところをならうにはじごくをならうなり」おんぎくでんP797とのおおせをひきだし、こんかいのこうさつをとじることにしましょう。
おわり