投稿者:赤胴鈴之助 投稿日:2016年 6月29日(水)02時22分39秒
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このおんふみは、いまげんざいのこころがこうせんるふしぐせいがんのために、どりょくしぬき、
くろうしぬいていけば、ほんらい、わがみにそなわるぶっかいがかならずゆげんする。

こうせんるふのためにじんりょくすることじたいがなむみょうほうれんげきょうそのものなのだ・・・ととらえたい。

いいかえれば、

こうせんるふはしぐせいがんをちかったほとけとほとけでしかなしえないだいいぎょうであり、
ほとけとほとけのみがよくりかいし、とくことができるだいせいめいてつがくなのだとおもいます。

しょうがいしゃであれ、けんじょうしゃであれ、なみだもでないほどくるしくて、くるしくて、
もがきくるしむひ々びのれんぞくであったとしても、ただいま・げんざい「いきている」ということは、

こころのどこかでぶっぽうをもとめ「しあわせになりたい」とねがっているのではないでしょうか。

そのくるしむひとをかたにせおい、ささえはげまし、そせいさせ、かおをあげてまえをみろと
おしえてくれたのは、いけだせんせいであり、がっかいどうしです。

いけだせんせいのこころはじしんなきあとのことをかんがえて〝そくしんじょうぶつのほうもん〟をげんだいにじゅうおうむじんにてんかいし、
まつだいのしゅじょうにじょうぶつへのほうとをときしめし、かきのこしているのだとおもいます。

こうかんがえれば、かつてつまがいった

「わたしにとっていけだせんせいのしどうは『ごしょ』なのよ。そんなのわたしのじょうしき」

ということばもほんしつをとらえているとおもう。

そうたいしゅのじょう・・・つまりそくしんじょうぶつのほうもんは「ゆいぶつよぶつ・ないのうくじん
ただぼとけとぼとけとのみがよくきわめつくしている」のひみつのほうもんであり、
ぼんぷのしぎしがたきほうもんなのです。

だいしょうにんは「そのようなひみつのほうもんをきいて、いかなるりえきがあるのかつうげ」ごしょ984ぺーじ・・・しもんぶつじょうぎ

とのしつもんにたいして

「はじめてほけきょうをきくということである。・・・・そしてまつだいのぼんぷが
このほうもんをきくならば、ただじぶんひとりだけがじょうぶつするばかりではなく、
ふぼもまたそくしんじょうぶつするのです。これがだいいちのこうようであるしゅい」どうぺーじ

とこたえました。

いうまでもなく〝きく〟とは〝しんじる〟こととどうぎだとおもいます。

なにものによってもこわされず、えいきゅうにくずれることのないぜったいてきなこうふく
・・・これはじんるいのえいえんのねがいであり、ばんにんきょうつうのりそうだとおもいます。

そのねがいとりそうをぜんせかいにるふするために、
ししょうはいまはなにもかたらず、でしをきびしくきたえているのだとかんがえます。

さいごに、しょうわ31ねんの「だいびゃくれんげ」にけいさいされたしていふにのざだんかいをしるしておわります。

いけだ
「しゃくぶくをするということが、そくじぶんじしんをしゃくぶくしているんだということにつうずるでしょうか」

とだ
「それではおしえよう。さいごのいちもんをおしえます。じぶんじしんがなむみょうほうれんげきょうでいきているということです。
それいがいにしゃくぶくはないのです。おぼえましたか。てれんてくだもほうほうもなにもありません。

ただただ、おれはなむみょうほうれんげきょういがいになにもない! ときめることをまっぽうのしゃくぶくというのです。

それいがいにないでしょう。

どういうふうにやったらなむみょうほうれんげきょうがひろまるか、
どのようにやったらなむみょうほうれんげきょうがよくなるか、
ひとによくおしえられるか、そんなほうほうろんはかんけいありません。

われみずからがなむみょうほうれんげきょうだ!なむみょうほうれんげきょういがいになにもない! ときめきって、きめきるのです。

おれはそれいがいにない、わるければ、ころしてもしんでもなんでもしょうがないと、
じぶんはなむみょうほうれんげきょうだときめるのが、さいごのしゃくぶくです」

いけだ
「はぁ、それはかんたんです。・・・・・・わらい」

とだ
「そう、かんたんなのです。どうにでもいおうとおもえばむげんにいえるけれども、しかし、しんぎはそれしかない」

とだじょうせいぜんしゅうだいにかん466ぺーじ

おわり