投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 7月27日(水)12時43分45秒   通報
「魔」や「業」による病は、生命それ自体の問題であり、結局、
自らの強い信心によって「病魔」を打ち破っていくしかないのです。

大聖人は

「悪逆を犯した阿闍世王は、提婆達多や邪見の六師外道から
指導を受けていたので、仏には帰依しなかったのである。

ところがマカダ国に天変地夭が絶え間なく起こり、他国からは攻められて
事態は悪化していくばかりか悪瘡すら王の身に出て、国土は一時滅びるかにみえたときに、

王もにわかに改心し、仏の前にきて懺悔したのでその罪は消えた(趣意)」

(御書九三一頁)と述べています。

「懺悔」とは一般的に
過去の罪を悔いてお詫びするという程度に使われていますが、
この言葉はもともと仏法用語からきたものです。

仏法でいう〝懺悔〟とは二つの意味があって、

一つは過去に犯した罪悪を悔い改めて、仏や菩薩、また師匠や衆人などに公開してその内容を述べるということ。
二つは「端坐して実相を思え」と仏典(観普賢菩薩行法経)にはあって〝実相を思う〟とは信力・行力にあたります。

つまり、阿闍世王の難病が治ったのは、過去の罪を悔い改め、
正法弘通に精進したからこそ、病気を完治し、さらに四十年も寿命を延ばすことができたのです。

大聖人は

「小罪であっても懺悔しなければ、悪道を免れることはできないし、
大逆罪であっても懺悔すればその罪は消える(通解)」(御書九三〇頁)と断言しています。

病苦というものは、病気になった本人も、その家族や周りの人たちも辛く悲しいものにさせます。

辛く悲しいからこそ治したいのは当然として、

何のために治りたいのか、治してこれからの人生をどう生きていきたいのか、

それを考え、答えを見つけて、ご本尊に訴えていくことも大切なのではないでしようか。