投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 7月26日(火)14時59分41秒   通報
御書には

「譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし」(九二一頁)

とあります。

私たち仏法者が心得なければならないのは、医療の専門家ではない限り、
病気を治療するのはあくまでも医師の仕事であって、

私たちができるのは〝信心の指導〟だということです。

たまに勘違いしている人もいますが、信心指導をおろそかにして、
治療法などを詳しく話したとしても根本的な解決にはなりません。

相手の悩みの根源を見抜かないで安易な指導をした場合は、
悩みが解決するどころか、かえって相手を苦しませることにもなります。

そういう意味でも指導する立場の人間は、まず自らがしっかり題目をあげ、
我見ではなく、つねに御書を依文として信心の指導を心がけることが大事だと思います。

さて、大聖人御在世当時、太田入道という門下が痛みを伴う病気にかかり、
それを手紙で報告したのに対する御返事(太田入道殿御返事)があります。

この手紙のなかで大聖人は太田入道が病気になったことについて

「一度は嘆いたが、再びは悦んだ(通解)」(御書一〇〇九頁)と述べています。

つまり、初めは世間一般のうえからは悲しんだが、仏法で見たならば一歩深い意義があり、
これによって仏法をさらに深く学ぶことができるからであるということです。

大聖人は経典や論釈の文を引用し、

特に天台の摩訶止観(次から止観)に光を当てて、病気の本質を解明していきました。