2016年7月27日 投稿者:無冠 投稿日:2016年 7月27日(水)02時30分4秒 通報 全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。 2006-10-28 【創立記念日祝賀協議会】 ■ 一、栄光燦(さん)たる学会の「創立の月」、おめでとう! (大拍手) 全同志の尊き健闘ありて、わが創価学会は、すべてに勝って、創立76周年の「11・18」の佳節(かせつ)を、最高に晴れ晴れと迎えることができます。 本当にありがとう! 本当におめでとう! 日本全国、そして全世界の同志のさらなるご健康とご長寿、ご尊家のご多幸とご繁栄を心から祈りつつ、祝賀のスピーチを留めさせていただきたい(大拍手)。 ●異体同心が永遠の指針 一、有名な「諸法実相抄」に仰せである。 「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや」(御書1360ページ)と。 この「地涌の義」の大法則通りに、今、新しい人材が続々と使命の大地に躍り出て、新しい力を発揮しながら育ってきている。 これほど、うれしいことはない。 創価学会の前途は、太陽が赫々(かっかく)と昇りゆくように、限りなく明るく開かれている。 先輩は、伸びゆく後輩を大切にすることだ。 後輩は、先輩のよいところを見習って、大いに力をつけていくことだ。 「異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なし」(同1463ページ) この永遠の指針のままに、学会は「異体同心」で団結していくことだ。 全員が尊き使命を持った地涌の菩薩である。 全員が偉大なる広宣流布の同志である。 我々には何一つ、差別はないのである。 なかんずく、牧口常三郎先生は、「下から上を動かせ」と常々、教えられた。 「上から命令を押しつけるのではない。下からの意見をどんどん聞いて、いかしていくのだ」 ── これが、先生の正しい価値観に基づいた組織論であった。 その通りに実践してきたから、学会は常に活力を漲(みなぎ)らせながら、発展してきたのである。これからも、この鉄則を絶対に忘れてはならない。 ●如説修行の人を諸仏・諸天は守る 一、戸田城聖先生は遺言として、「信心は日蓮大聖人の時代に還(かえ)れ! 」と言い残された。これが、戸田先生の叫びであられた。 創価学会の「創立の原点」とは、まさしく「大聖人の精神」に立ち返ることである。 ここに、初代、2代、そして3代の創価の師弟を貫く魂がある。 御聖訓には、「総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ、さだにも候はば釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし」(同989ページ)と説かれている。 この「日蓮が如く」との仰せを違(たが)えず、創価の三代は「不惜身命」「死身弘法」の決心で、「三類の強敵」「三障四魔」との大闘争を勝ち越え、「悪口罵詈(あっくめり)」「猶多怨嫉(ゆたおんしつ)」の大難を乗り越えてきた。 だからこそ、釈迦・多宝・十方の諸仏の守護も厳然と現れたのである。 無量無辺の諸天善神も、じっとしてなどいられない、創価の師弟の如説修行の戦いであったのだ。 ●師匠の大恩(だいおん) 一、仏法の根幹は「師弟」である。 戦後、事業が挫折し、絶体絶命だった戸田先生を、青春の一切を捧げてお守りしたのは私である。 先生は、その私に第3代を託し、全身全霊で育ててくださった。 先生が、病弱だった私をどれほど心配され、どれほどの思いで御本尊に祈ってくださったか。その大恩は計り知れない。 私は戸田先生の弟子である。 その誇り高き自負を抱(いだ)いて、師匠のため、学会のため、広宣流布のために、あらゆる難を一身に受けながら、あらゆる批判に耐えて、私は、ここまできたのである。 この崇高なる師弟に、学会の世界的発展の原点がある。 「師弟不二」であれば、打ち破れない「壁」などない。「師弟不二」に徹し抜いていけば、今の何倍も、学会は発展していくことができる。 仏法の師弟を忘れた恩知らずの輩に、大切な学会を食い破られてはならない。妙法の宝剣で、魔と戦い、魔を断ち切っていくのである。 ■ マズロー博士(アメリカ最高峰の心理学者)は、権力の魔性を鋭く喝破し、それを超克(ちょうこく)していく「リーダーシップ」のあり方を示している。 博士は、警鐘を鳴らしている。 「権力の獲得は、大抵の人達を、善よりも悪の方向に導いてしまう傾向にあるというのが私の印象です」(エドワード・ホフマン編、上田吉一・町田哲司訳『マスローの人間論』ナカニシヤ出版) 人類の宿命的な命題であるといえよう。 これを大転換していかない限り、不幸の流転を止めることはできない。 博士は論じている。 「権力を求める人間は、その権力を持つ資格のない者である」 「仮にこのような人間が権力を得た場合、まちがった権力の行使をやりかねない。 すなわち、征服、圧迫、人を痛めつけることなどによって、利己的快楽をほしいままにし、意識的、無意識的に権力の乱用をすることになる。このような人間がリーダーとなった場合、義務も、職務も、目標も、すべて忘れさられてしまう」(原年廣訳『自己実現の経営』産業能率短期大学出版部) 仏法では、こうした権力の魔性を「他化自在天(たけじざいてん)」すなわち、「自分以外のすべてを、自分の手段として利用しようとする、生命の根源的な傾向性」としてとらえる。そして、その魔性を本源的に打ち破り、自他ともの幸福を目指す道を説き明かした。 この戦いは、仏法を根本とした「人間革命」運動の一次元であるともいえる。 だれよりも、まず指導者自身が、「人間革命」することである。 ●「軽蔑」する心が指導者を狂わす 一、有名な『プルターク英雄伝』に、ある将軍の人生が描かれている。 それは、強敵を打ち破り、多くの戦いで勝利を重ねて名を馳せた、ローマのルクルス(ルークルルス)である。 彼は、勇気も智略も備えた将軍であった。 しかし、ある時点から「順風(じゅんぷう)が止んだように」何事もうまくいかなくなってしまったという。兵士たちの心も離れた。 その「最大の原因」は何であったか。作家プルタークは洞察している。 それは、「すべての人を軽蔑して自分に比べればまるで価値がないものと考えていたことである」と(河野与一訳、岩波文庫。現代表記に改めた)。 他者を尊敬できない「傲慢(ごうまん)」、他者を大事にできない「慢心」が一凶であったというのである。 ゆえに彼自身が、自分の兵士たちから軽蔑された。 我らの世界においても、幹部は断じて威張ってはいけない。また、威張らせてはいけない。 特に、女性に対して威張る幹部を許してはならない。 ●庶民を守り抜け 一、ともあれ、「民衆とともに」「民衆の中で」「民衆のために」 ── ここに、広宣流布の大運動の永遠の軌道がある。 日蓮大聖人が、なぜ「民の子」として御聖誕されたのか。ここに、民衆仏法の甚深(じんじん)の意義がある。「民の子」に生まれたがゆえに、法華経の行者として三類の強敵を招き寄せたのである。 日寛(にちかん)上人は「悲門(ひもん)は下を妙と為す、即ちこれ慈悲の極(きわみ)なり」と記しておられる。 仏の慈悲の門は、庶民として生まれ、大勢の人々を救うことを「妙」となすのである。 人類の99パーセントは「民衆」である。仏法は、一握りの特権階級のものなどでは絶対にない。全民衆、全人類を救うためにある。 そのために、御本仏自らが庶民として出現され、民衆を尊び、民衆の味方として戦い、生き抜かれたのである。 後継の日興(にっこう)上人も、また日目(にちもく)上人も、見栄っ張りな三位房(さんみぼう)らのように、当時の最高学府に当たる比叡山などに遊学されなかった。 大聖人にどこまでも常随給仕して、師とともに法難を受けきっていかれたのである。 創価の三代も、同じ精神である。 大事なのは庶民だ。庶民を守り、大切にする。牧口先生も、戸田先生も、そして私も、その一点に心を砕いてきた。 無冠の庶民が一生懸命、戦ってくださった。それを諸天善神、そして大聖人が護ってくださった。だから学会は、ここまで発展した。 無名の庶民の母が、幼子(おさなご)を背負って折伏に行き、馬鹿にされ、悪口を言われながら、必死に戦ってきた。 こういう方々の戦いで、広宣流布を成し遂げてきたのである。 目的は庶民の幸福だ。幹部は、その目的のためにいる。このことを忘れてはならない。 学歴や自らの地位に傲(おご)って、こうした庶民を馬鹿にするような人間を、絶対に許してはならない。 見栄っ張りは危ない。こういう人間が幹部となって、威張り出すと、学会が壊されてしまう。利用されてしまう。 そして結局、本人も仏罰を受けることになる。 だからこそ、こうした人間には厳しく言っていくことだ。 私は、庶民に尽くしゆくリーダーを育ててきた。訓練してきた。 そして、庶民のための学会をつくってきたのである。 私は、200の名誉学術称号の栄蛍も、大学に行けなかった同志に捧げる思いで拝受している。 ともあれ、創価学会は永遠に民衆の側に立って戦う。 この一点を改めて確認しておきたい。 戸田先生は高らかに宣言なされた。 「いったい誰が、庶民を護(まも)るのか?それは、学会である! 」 「庶民が強くなるとは、どういうことか?学会が強くなることである!」 これが我らの永遠の精神である。 ●臆病は敗北 一、日蓮大聖人は、御書の中で何度も次の涅槃経(ねはんぎょう)の文を引いておられる。 「もし仏法者が、法を破る者を見ながら、そのまま放置して、相手の非を厳しく責めず、追い払わず、はっきり罪を挙げて処断しないのであれば、まさに知るべきである。この仏法者は、仏法の中の怨敵(おんてき)である」(御書236ページ等、通解) 戸田先生はこうした御文を拝し、叫ばれた。 「『仏法中怨(ぶっぽうちゅうおん)』の責を知り、かつ仏敵を放置しておくわけにはいかん」 「内なる敵が最も卑怯だ。その敵は断固、追放せよ!」 これまでも、嫉妬に狂い、私利私欲に溺れ、大恩ある学会に反逆した人間がいた。学会を分裂させようと、もくろんだ輩がいた。 仏法では、「嫉妬」は「提婆(だいば)の心」として戒(いまし)められている。 嫉妬、陰口、陰湿 ── こうしたことから団結が破壊される。心が分断される。それは学会の世界ではない。 悪の本質を鋭く見破っていかねばならない。 さらに、こう教えられた。 「戦うべき立場にありながら、敵を前にして戦わない、ずるい人間は必ず罰せよ!」 臆病では、正義は守れない。 私は青年時代、弟子として、戸田先生を守り抜いた。先生を守ることが正義を守り、学会を守ることであると確信していたからだ。 一番正しい人を守るなかに、すべてが含まれるのである。 先生は、訴えておられた。 「わが崇高なる学会に、一人たりとも魔を寄せ付けるな! 信心の利剣(りけん)で、魔を断ち切っていけ」 また、先生の講義をずる休みした幹部に対しては、「分かっていると思ったら大間違いだよ。聞くたびに境涯がひらけるのだ」と厳しく叱咤しておられた。 さらに、戸田先生のご指導に学びたい。 「大聖人の哲学は深い。これでよいというときはない。途中で慢心(まんしん)を起こしたら退転(たいてん)だ」 「経文にも、信心強盛の人の処(ところ)は、我此土安穏(がしどあんのん)と説かれている。 なんで恐ろしいことがあろうか。 さまざまな世情(せじょう)に、学会幹部は一喜一憂して紛動(ふんどう)されては断じてなりません。そんな心弱い、惰弱なことでは、広宣流布の大業(たいぎょう)を遂行(すいこう)することは、決してできない」 時代が乱世であるからこそ、強盛な信心を奮い起こし、わが同志が一人ももれなく「無事安穏」で、功徳を受けきっていけるように、聡明にして確信ある指揮をお願いしたい。 ■ リーダーは、だれよりも勇敢であれ! ── 私はこう強く訴えたい。 「声仏事を為す」(御書708ページ)である。 リーダーは正義を叫び抜くことだ。学会を破壊しようとする敵に対しては、断固たる破折の鉄槌(てっつい)を加えていくことだ。 大聖人は、民衆を不幸に陥れる誤った思想を徹底して破折された。牧口先生もそうだった。 叫んだ分だけ、善は拡大していくのである。 結びに、戸田先生の言葉を紹介し、私の記念のスピーチとしたい。 「いま、私には、前進があるだけだ。 闘争があるだけだ。そして勝利があるだけだ。 前へ前へ向かって!」 まっすぐに、伸び伸びと、攻撃精神を発揮して、明るく、足音高く、前へ進んでいく。これが学会精神だ。 「創立の月」から、ともに、新たな戦いを開始しよう! きょうは、本当にありがとう! 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