投稿者:無冠 投稿日:2016年 7月16日(土)10時12分43秒   通報

全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。

2006-6-6【第2総東京最高協議会】
■ タゴールの盟友であったマハトマ・ガンジーは叫んだ。
 「不断の成長が人生の法則である」(クリパラーニー編・古賀勝郎訳『抵抗するな・屈服するな』朝日新聞社)
 ガンジーは、こうも言った。
 「わたしは、わたしの心がつねに成長し、つねに前進してゆくことを望んでいます」(森本達雄・古瀬恒介・森本素世子訳『不可触民解放の悲願』明石書店)と。
 仏法もまた、「進まざるは退転」である。
 恩師・戸田先生は厳しくおっしゃった。
 「組織を陳腐化させてはならない。官僚主義で機械的に上がっていくような、また、そつなくやっていればいいというような、組織になってはいけない」
 「創価学会は、日進月歩、つねに生々(せいせい)発展する生きものなのだ」と。
 若き日の私は、広布のため、学会のために、師匠に全力でぶつかっていった。それが私の青春の日々であった。
 失敗を恐れては、前進はない。
 叱られることを避けるようでは、成長できるはずがない。
 戸田先生に、一番、叱られたのは私である。
 だから鍛えられた。
 本物となった。
 不屈の自分自身の土台を築き上げることができたのである。
 日蓮仏法の真髄は、「月月・日日につよ(強)り給へ」(御書1190ページ)である。
 ゆえに、きょうも、生き生きと語り合い、楽しく朗らかに学び合い、強く強く前進していきたい。
 わが境涯を限りなく開き、向上させていくための仏道修行であり、学会活動である(大拍手)。

●牧口先生の御書
 「一閻浮提への広宣流布」 ── この釈尊、そして、日蓮大聖人の仏意仏勅を実現するために、牧口先生は、愛弟子(まなでし)の戸田先生とともに、決然と未聞(みもん)の大闘争を起こされたのである。
 大聖人の仰せのままに、「広宣流布の信心」を高らかに掲げて、法華経に説かれる「猶多怨嫉(ゆたおんしつ)」「悪口罵詈(あっくめり)」の難を受け、「三類の強敵」を打ち破ってきたのは、だれか。
 牧口先生を原点とする、わが創価学会の三代の師弟のみである。
 ここにこそ、大聖人の真の血脈は流れ通っているのだ。
 この偉大なる創価の師弟の道を、今や世界190力国・地域の地涌の同志が、胸を張って進みゆく時代に入った。
 この6月6日は、SGIの「ヨーロッパの日」でもある。
 全世界の同志が、創価の父の生誕の日を心から祝賀している。
 牧口先生が、戸田先生が、どれほどお喜びになっておられることであろうか。両先生の直系の弟子である私にとっても、これほど、うれしいことはない(大拍手)。

●勇者となって先陣を切れ!
 一、戸田先生は折にふれ、おっしゃった。
 「自分は立派な信心をまっとうせず、あちらこちらで愚劣な批判ばかりしている邪魔者は追放せよ!」と。
 建設的な意見には、しっかりと耳を傾け、大事にしていかなければならない。ただし、愚痴とか、わがままは、組織をかく乱するだけだ。戦いの勢いを止めてしまう。
 ゆえに、皆で厳しく戒(いまし)めていかなければいけない。
 また、牧口先生が傍線を引かれた御聖訓にこうある。
 「たとえば、ひどい旱魃(かんばつ)の時に、小雨を降らせば、草木はいよいよ枯れ、兵を打つ時に、こちらが弱い兵を先に向かわせると、強い敵は、ますます力を得るようなものである」(御書37ページ、通解)と。
 戦いというものは、中途半端にやれば、かえって相手を利してしまう。
 先陣を切るのは、最強の勇者であらねばならないとの仰せである。
 「可もなく不可もなく」では名将とはいえない。
 勇んで最激戦地に飛び込み、すべての同志を奮い立たせ、邪悪と戦い、大きく活路を開いていく、勇気と慈悲のリーダーであっていただきたいのだ。

●素晴らしい信心 素晴らしい人生
 先日、私は第2総東京の女子部の代表に申し上げた。
  ── 素晴らしい「信心」が、素晴らしい「人生」を創る。
 深い「祈り」によって、深い「幸福」の土台ができあがる。
 毎日の勤行は、未来永遠につながる幸福へ出発する「きょう」を創っていくことである。
 信心することで批判中傷を受けることは、揺るぎない幸福のために、ありとあらゆる不幸の汚れや傷、垢を落としてくれる。
 広宣流布のために迫害を受けることは、厳しい社会のなかで、永遠の勝利を形作ってくれる試練である。
 皆さん方の折伏の対話、仏法の対話は、どんな為政者の演説よりも、どんな有名人の言々句々よりも、はるかに深く人々を救済できる原動力なのである。
 仏法ほど「慈悲」が深いものはない。
 仏法ほど「勝利」が広いものはない。
 仏法ほど、高い高い「幸福の塔」を築けるものはない。“
 信心の世界には、まったく無駄がない。
 学会活動は、無量無辺の自分自身の財宝、すなわち生命の最極の宝を磨いて、大福運を増やしていくことなのである ── と。

●感謝の心が人間を高める
 一、忘恩は傲慢(ごうまん)から生まれる。古今東西、そうした例に事欠かない。
 イタリア・ルネサンスの大芸術家ミケランジェロと弟子について、次のような証言が残されている。
 「彼(ミケランジェロ)は人に教えようとしなかったと、多くの人が非難しているが、これは本当ではない。
 進んで教えようとしたのだが、不運なことには、能力のない者か、能力はあっても辛抱力(しんぼうりょく)がなく、彼が教えて数か月もたたないうちに自分をひとかどの師匠と思いあがる者ばかりだった」(ロマン・ロラン著、高田博厚訳『ミケランジェロの生涯』岩波文庫)
 師匠からの厳しき訓練を受けてこそ、人間の土台ができるのだ。
 戸田先生の弟子として、すべてを捧げてお仕えし抜いた私には、それがよくわかる。
 師弟は、弟子で決まる。
 「師匠に一生懸命、お仕えしていこう!」 ──  この一点に心を定めることだ。そうすれば、すべて良い方向に変わっていく。
 覚悟が定まらず、心が散り散りばらばらになっている人は、何をやってもうまくいかない。
 誠実な人かどうか。要領の人間かどうか。師匠は、弟子のことをすべてわかっている。
 師匠の薫陶(くんとう)に対して、感謝できない傲慢な愚か者は、自分で堕落していくのである。
 オランダの哲学者スピノザは言った。
 「忘恩は感謝の軽蔑である」(齋藤☆(日+向)訳「神、人間及び人間の幸福に関する短論文」、『スピノザ全集第1巻』所収、内田老鶴圃刊)
 恩知らずは、「感謝」することを軽蔑している。
 人に感謝すると、自分の価値が下がってしまうかのように錯覚している。ここに大きな狂いがある。
 人間は感謝の心を持つことで、より高められ、より豊かに、より大きくなれるのだ。
 忘恩の輩には、それがわからない。心の奥底に傲慢(ごうまん)があるからだ。

●貧欲(どんよく)になると人を見くびる
 一、「傲慢」と「貪欲(どんよく)」は、深く結びついている。
 「貪欲になればなるほど、同じ仲間である人間をいよいよ平気で見くびるようになる」(馬場俊彦訳「人類の一体性と教育」、『タゴール著作集第9巻』所収、第三文明社)と、タゴールは喝破している。
 さらにタゴールは、「協調の原理」の重要性を訴え、「それが欠けているところに、苦悩や、悪意や、虚偽や、蛮行や、紛争が生じるのです」(森本達雄訳「協調」、『タゴール著作集第8巻』所収、第三文明社)とも述べている。
 仏法に説かれた「異体同心」は、最高の協調の原理である。
 南米解放の先駆者ミランダは言った。
 「わが友よ、悪辣(あくらつ)な輩の中傷や妄想に振り回されてはならない」
 私たちもまた、悪意のデマなどに紛動されてはならない。
 卑劣な中傷は強く打ち砕き、金剛不壊(こんごうふえ)の団結で、広宣流布に邁進してまいりたい。
 戸田先生は、外の敵より内部の敵を警戒しておられた。
 「破れるのは学会の内部からである。気をつけよ!」
 「今後の学会は、くさった幹部を切らねばならない」
 先生の叫びは、今も私の耳朶(じだ)に残っている。
 広宣流布は、仏と魔の戦いである。戸田先生の叫びには、「断じて学会を守る」「民衆を守る」との一念が凝結していた。
 「人事と金銭は、絶対に正確にして、問題を起こしてはならない」
 これも、戸田先生の厳命であった。
 イギリスのシェークスピアの戯曲に、次の有名な一節がある。
 「金は借りてもいかんが貸してもいかん。貸せば金はもとより友人まで失うことになり、借りれば倹約する心がにぶるというものだ」(小田島雄志訳「ハムレット」、『シェイクスピア全集1』所収、白水社)
 小事が大事である。私どもは、戸田先生の遺言を厳守して、清らかな学会の組織を、永遠に守り抜いてまいりたい。

■ 一、最後に御書を拝したい。
 日蓮大聖人が、佐渡流罪という大難の渦中で著された「佐渡御書」である。
 「身命にまさるほど惜しいものはないので、この身を布施として仏法を学べば、必ず仏になるのである」(956ページ、通解)
 「不惜身命」こそ、仏法の魂である。
 そして、大聖人の御遺命である広宣流布のために、不惜身命の闘争をしてきたのは、だれか。
 それは創価の三代の師弟であり、その精神に連なる、わが学会の尊き同志の皆さま方であると強く申し上げて、私の記念のスピーチとしたい。
 ありがとう!(大拍手)