投稿者:螺髪 投稿日:2016年 7月19日(火)06時03分0秒   通報

「生命の世紀」への考察
「矩(のり)」

 日蓮大聖人が根源の法を「妙法蓮華経」と仰っておられますで、この妙法蓮華経、ないしは「南無妙法蓮華経」にこだわっていきたたいと思います。妙法蓮華経がこの宇宙の根源の「法」だからです。

 「法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり始の三如是は本覚の如来なり、終の七如是と一体にして無二無別なれば本末究竟等とは申すなり」(一念三千法門P413)
 と仰せです。

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&&「矩面(のりめん)」は「法」である!
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「矩面(のりめん)」という言葉があります。建設業界に関係する方であれば、馴染み深いでしょう。
 山を切り開いて道路を造ったその壁面や、堤防の土手の壁面がそれです。
 いまは施工方法や技術が向上し、コンクリートブロックや芝生が表面に敷き詰められて壁状になっているので、「壁」という印象があります。でも「矩面」です。
 かつては、山肌を削ったそのあとにモルタルなどを張り詰めていたため、表面はかなりでこぼこ状態でした。それでこれを「壁」ではなく「矩面」といっていました。グランドや校庭の広場にも水捌けがいいように、緩やかな傾斜が設けられています。これも、言ってみれば緩やかな矩面です。

 この矩面の「矩(のり)」は、「法」と同じ意味です。「法」は、「規範」であり「力」です。その矩面に「法」の「力」が働いているからこそ「矩」の「面」と表現したのだと考えられます。孔子の「心の欲する処に従えども矩を超えず」の「矩」と同じです。「矩(のり)」は「法」です
 それは、どんな「力」でしょう。
 矩面にはいろんなものがあります。石っころ、草木やその根、そして何より多いのは石よりはるかに小さい土。そこで働く「力」で何といっても大きいのは、地球という個体と石、土、草木の引き合う「力」です。質量を持つ物質は互いに引き合う力を生じさせます。大きい方に引き寄せられます。平たくいえば「万有引力」が働き、地球側、つまり下に落ちる力となって働きます。
 それに比べればはるかに小さい力ですが、土と土、土と石、土と草木がくっつこうとする「力」も必ずあるはずです。土と土の間に「水」が入り込めば、粘着力となってくっつく力を高めるはずです。

 何を言いたいのかというと、この壁面の内部にも厳然と「力(ちから)」があるということです。いや、「力」が働いているからこそ、「矩面」としてその形状を保っているとも言えます。「生命体」には「力(ちから)」があります。地球がひとつの「生命体」だとする考え方はかなり浸透してきましたが、地球上の山や谷や海や川や木々や、この矩面までもがやはり個の「生命体」です。
 人間に五臓六腑の個の生命体があって、連携を織り成して人体を造り上げているのと同じです。
 地球上の動物だって、その一部(個)だと見ることさえ可能です。いや、きっとそうなのでしょう。

 「矩面」の話にもどりましょう。矩面にあるのは「法」という「規範」と「力」です。「力」が矩面を形づくっているということになります。「力」はエネルギーです。
 「生命」もある種の「力」です。「力」はエネルギーです。エネルギーを中国では「能源(のうげん)」と言っていることを以前に紹介しました。仏法では「法性」といっています。「法性」は「仏性」です。この「仏性」に大聖人は「妙法蓮華経」という名を付けられました。法華経の智慧で池田先生が仰って見えますように、「妙法蓮華経」という表現はすでに経文にありますが、「仏」に「妙法蓮華経」という名を当てられたのは大聖人が初めてです。
 「仏法」ではこの根源の力を「法性」と呼んでいるのですから、「エネルギー」を「法性」と特定したらどうなのでしょう。「法性」が万物を造り上げているということになります。

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&& 私たちの「妙法蓮華経」から生じた「三千」も同じ!
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 私たちの「妙法蓮華経」から生じた「三千」も同じなのではないでしょうか。

 「妙法蓮華経」は、空諦・仮諦・中諦の「三諦」からなり、法身・報身・応身の「三身」からなり、法身・般若・解脱の「三徳」からなります。同じものを言ったものです。切り口が異なるだけです。

ちょっと分かりづらい概念ですが、我慢して頭の中に整理したほうがいいようです。大聖人仏法を正確に掴むために大事な概念です。私もこれを整理して、ずいぶんと理解が深まりました。妙法蓮華経を十如是、あるいは十界互具と、その構成から見るのと同じです。これに三世間をかみ合わせれば「一念三千」となります。
 その同じものとは、「生命」であり、「妙法蓮華経」であるということができます。つまり妙法蓮華経は生命です。その妙法蓮華経をつくり、維持するものが、法と一体となった南無妙法蓮華経といっていいと思います。

 三諦の空諦、三身の報身、三徳の般若の、つまり「智慧」という角度から見ると少しは分かりやすいかも知れあせん。
 大きな「円」があります。その中に、小さな「円」が、あるものは一部が重なり、あるものはまったく重なり合わず、またその多くが重なりあっているものがあります。その「円」がそのまま「個」の「智慧」です。「円」は「囗(くにがまえ)」に置き換えてもかまいません。
 「以円為即とは一念三千なり妙と即とは同じ物なり一字の一念三千と云う事は円と妙とを云うなり円とは諸法実相なり、円とは釈に云く円を円融円満に名くと円融は迹門円満は本門なり又は止観の二法なり又は我等が色心の二法なり一字の一念三千とは慧心流の秘蔵なり、口は一念なり員は三千なり一念三千とは不思議と云う事なり」(御義口伝P714)

 小さな「円」の、大きな「円」に重なる部分は同じものです。同じ智慧です。大きな「円」が仏の、全体の智慧だとすると、その全体の智慧に向かって小さな「円」はどんどん拡大していこうとします。それが求道です。
 小さな「円」同士はどうなのでしょう。重なり合う部分があれば一致します。同じ智慧なのですから。でも、重なり合わなければ、理解し合えません。小さな「円」の中に同じ智慧がなければその智慧が噛み合うことはありません。「円」そのもの「三千」なのです。どこまでいっても「己心の法」です。

 「一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」(三世諸仏総勘文教相廃立P563)

 「円」はまた「一念三千」の「三千」でもあります。元々「一念」から生じた「一念」の変化相です。「一念」とは「妙法蓮華経」のことです。いつでも十界のどの界にも変わり得ます。それが「十界互具」の原理です。

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&& 私たちひとり一人は、間違いなく「妙法蓮華経」です!
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 私たちひとり一人は、間違いなく「妙法蓮華経」です。そう大聖人が仰って頂いてます。人間だけでなく、草木も、石も、土も、川も、組織も、社会も、みんな「妙法蓮華経」だというのが、大聖人仏法の「骨髄」です。みんな「仏」です。

 そこでです。この一番外周にある「円」が無くなってしまったら、どうなるでしょう。
 その中にある小さな「円」の基軸とするものが無くなってはしまいませんか。同調するものが重なり合う「円」か、どこか遠くの「円」になってしまいます。
 それが、いま起こりつつある現象ではないでしょうか。

 「法門」というのは、その根拠というか、論拠を示すためにどうしても細分化が避けられません。細分化して、一つひとつを吟味するのです。そこでは、解析が中心となります。論拠無き論理は根無し草です。
 だが、人が欲しいのは、その細分化した一つひとつの論理の、むしろ組み立てです。コンプリートされたものでないと、具体的なイメージが湧きません。納得もありありません。おおよそ、人は、その細分化した論理の検証や吟味に手間取ってしまい、その組み立ての正確な完成に至ることは、むしろ稀であるかも知れません。

 また、細分化した個々の論理は、そこに至るまでの知識、認識の違いで、提示する法と受け取る側の論理の解釈が噛み合わないことが多々あります。勢い、自身の手元にある知識、認識で、極めて吟味の薄い“情緒”的な法門の解釈となってしまうことが、往々にしてあります。

 「徳」と「智慧」とは、「三徳」「三身」ということで同じものです。これが、如来寿量品の「楽於小法 徳薄垢重者」(徳薄く垢重き者は、小法に於いて楽う)の意味でしょう。「語る領域」がそもそも違うということになります。

 「矩面」は、あらゆる「力」が重なって、「調和」をなして成り立っているものです。