2016年7月11日 投稿者:螺髪 投稿日:2016年 7月11日(月)20時53分4秒 通報 「生命の世紀」への考察 「脳を考える」 もう、20年以上も前になるでしょうか。東洋哲学研究所発行の書籍に、池田先生の「脳を考える」というタイトルの論文が、載ったことがあります。まだ、各界からの論文が載っていなかった段階でしたから、先生が自ら率先を切って投稿されたのかな、との印象でした。記憶ベースですが、思考や感受の「座」がどこにあるのかというと、「脳にある」との記述だったと思います。 「脳」は、働かせて、働かせて、働かせていないと、「迷走」に走るようです。否、放って置けば「脳」は働く、思考し続ける、やがて「迷惑(みょうわく)」に陥るというのが「脳」の実体なのかも知れません。「迷惑(みょうわく)」から「無明」へはほとんど一直線です。つまり、迷走に走るその脳の機能こそ、「無明」の大きな要素であると考えられるのです。だから、「脳」は一定の方向に向かわせる働きをさせてあげなければいけない、忙しくさせてあげなくてはいけない、あるいは本当の意味での休息を与えてあげないといけないようです。 高齢化社会の到来で、いままさに、この「無明」の問題はクローズアップされるべきでしょう。 池田先生とアーノルド・トインビーの「21世紀への対話」にこんな記述があります。テーマは「余暇」です。(※投稿ベースに段落を変えています) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「21世紀への対話」<上巻>第5章 「社会的動物としての人間」 ②「余暇の増大に対して」 上巻P258~261 池田 「=略= 余暇が増えるのは結構なことですが、労働を奪われるのは決してよいことではありません。=中略= 自己の力を存分に発揮できる仕事を失うことは、人間にとって耐えがたい苦痛だからです」 トインビー「失業することは、いうまでもなくいろいろの不幸を招くものです。失業の苦しみのうち、最も深刻でないにしても、最も明らかな苦痛は、経済的な困窮です。しかし、失業がもたらす心理的苦痛は、それ以上に激しいものです。何もすることがなくなったかつての労働者というものは、自分が社会にとって余分な存在になったと感じるものです。これは屈辱的なことです。人間は社会的動物であり、社会のはみだし者になることは人格を否定されたも同然の印象を与えるからです。 さらによくないことには、失業するということは暇になるということです。それも、失業した人がたまたま数少ない創造的才能の持ち主で、生涯余暇ばかりであったとしても、時間的、体力的に、消化し切れないほど多くの仕事があるのなら、話は別です。そうでもないかぎり、その人は人間の運命という、究極の問題に突き当らざるをえません。 人間は、生計の資をえる職やめたり、また、生計とは何の関係もない、自分でつくり出した仕事をやめると、途端にこの問題に悩まされます。その自分でつくった仕事が、いかに他愛なかろうと、有害であろうと、あるいは創造的であろうと、それは変わりありません。 人間の運命という問題は、すべての人を待ち受けています。これはいかに鈍感な人にも、いかに無感覚な人にも、共通の問題です。なぜなら、人間が意識ある存在であるかぎり、人間であることは厄介な立場、恐るべき神秘さのなかにいることだと、ときとして気づかずにはいられないからです。自己の存在が危機に見舞われた折などに、人間のこのような立場や神秘さに面することなく、一生を終えるという人はほとんどありません。 そして、慢性的失業状態とは、まさにこの一時的に見舞う危機と同じ働きをしうるのです。つまり、人間の運命という問題を、不可避的に突きつけるのです。 この問題を直視せざるをえないのは、祝福すべきなのでしょうか。それとも呪わしいことなのでしょうか。多くの人間は、まるでそれが呪わしいように振る舞っています。すなわち、彼らは強制的な仕事によって麻痺されることがなくなると、今度は自ら不必要な仕事を考え出して自分を麻痺させます。もし社会からはみだして社会的麻痺剤を手に入れられなくなると、彼らは酒や麻薬で身体を麻痺させるのです」 池田 「私は、余暇が増えるにせよ、労働に取り組むにせよ、人間にとって結局大事なことは、そこに主体性を確立し、創造 的に生きていくことだと考えます。 現代の風潮には、たんに労働時間を減らせば、それは直ちによいことだとする考え方があります。しかしながら、労働は人間にとって苦痛であるとともに、創造の喜びをもたらすものでもあるわけです。この両面の意味があることを忘れて、人間を労働から解放して余暇を増やせば、それだけ苦痛が減って喜びに変わるだろうと考えるのは、あくまで誤りだといわざるをえません。 社会体制のあり方としても、私は、労働によって個人を義務的に束縛するのではなく、各人が自己の才能や特質に応じて思う存分働くことができ、余暇もまた有効に過ごせるような、総合的な体制がつくられなければならないと思います。 トインビー 「おっしゃる通りです。しかし、ここでもう一度、余暇を人間の運命に取り込むことに使うという点について簡単にふれてみたと思います。なかには、余暇をそのように使うことを幸いと感じる人もいるものです。人間の運命を直視するということは、宗教、哲学の別名です。かつて余暇を持つことを特権としていた少数のうちでも、創造的少数のなかには、芸術、科学、技術などよりは、むしろ宗教、哲学の分野に才能を発揮した人々が、いつの時代にもいたものです。 このように、人間の究極の精神的問題を考えることに生涯を費やして、そこに自己達成を見いだすことのできた人もいるということは、あらゆる人にとって、そこに自己完成のカギが秘められているということではないでしょうか。きっとそうであるに違いありません。ただし、人間の運命という問題が、意識に目覚めたすべての人間に待ち受けているというのが真実であればの話ですが、これも間違いなく真実であるはずです。 =以下略=」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 余暇は、「考える」機会を増やしてしまうようです。年輪を重ねている人であれば、よく解かることです。考えないようにしていても、考えます。それが「脳」の与えられた“仕事”であるからのようです。 トインビー博士によれば、「慢性的失業状態」(=余暇)になると、「人間の運命という問題を不可避的に突きつける」ようです。「強制的な仕事によって麻痺されることがなくなると、今度は自ら不必要な仕事を考え出して自分を麻痺させます」。さもなくば「酒や麻薬で身体を麻痺させる」ようになることもあります。やはり、人間は「考える葦」のようです。 「考える」ことの「脳」の“座”は、やはりシナプス結合と考えるのが妥当でしょう。最近の研究成果では、脳のシナプス結合はかなり早い段階で網羅の網ができ、その使わない結合が消失していくという経過を辿っているようです。 これは、草木の枝の茂り方も同じようです。 草木の枝は、下から見ると右巻きに回転するように、上に枝を茂らせていっているようです。台風も同じ回転です。効率良く日光を浴びるための、素晴らしい自然の調律だなとも思ってもいました。だがどうも、実際の枝の成長は、そうではないようです。ほとんど無節操に枝、葉を伸ばし、不要なものがその中から廃(すた)れていくという経過を辿っているようです。生命史的にはむしろこちらの方が原型に近いのでしょうが、脳のシナプス結合もこれと同じようです。 本題に戻って、「考える」ということがこの脳のシナプス結合のネットワークの活動そのものだとするなら、「考える」ことは静止することができません。脳が持つ本来的な機能そのものだからです。だから、放って置けば活動し続け、迷走、妄想の類いに入り込まざるを得ないようです。それを避けるには、麻痺させるか、停止させるしかないとも言えます。働き過ぎれば“疲れ”ます。 もし、その機能をそのままにして、しかも働き過ぎないように維持するには、その活動を一定の方向に、迷走させないように、しかも“疲れ”させない程度に働かせるよりないようです。 それには、これまでに習った、すでにある類似の蓄積のものより、新しいもの、難しいものがいいようです。その方が新しい分野が開拓でき、一定の方向に、しかもゆっくりとした活動作業となりそうです。 トインビー博士の「(余暇は)人間の運命という問題を不可避的に突きつける」に関係するものでしょうか、こんな大聖人の仰せがあります。 「心と仏と衆生と此の三は我が一念の心中に摂めて心の外に無しと観ずれば下根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る・一と多と相即すれば一位に一切の位皆是れ具足せり故に一生に入るなり、下根すら是くの如し況や中根の者をや何に況や上根をや実相の外に更に別の法無し実相には次第無きが故に位無し、総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり」(三世諸仏総勘文教相廃立P567) 「一と多と相即すれば一位に一切の位皆是れ具足せり故に一生に入るなり」、さらに、「下根すら是くの如し況や中根の者をや何に況や上根をや実相の外に更に別の法無し実相には次第無きが故に位無し」と仰せです。「実相には次第無きが故に位無し」です。すべての人間が平等に「妙覚の位に入る」のです。 それは、トインビー博士の言う「人間の究極の精神的問題を考えることに生涯を費やして、そこに自己達成を見いだすことのできた人もいるということは、あらゆる人にとって、そこに自己完成のカギが秘められているということではないでしょうか」ということに帰結するのかもしてません。 Tweet