投稿者:無冠 投稿日:2016年 7月23日(土)21時57分51秒

全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。

2006-8-23 【各部代表研修会】

●自身を磨け
 一、「ウクライナのソクラテス」と謳われる哲学者のスコヴォロダは述べている。
 「人間の心は鍛えなくてはならない。それを避けると、高潔な思想も、真理の理解も、英知の精神も、すぐさま高貴な素性とは相容れない、卑劣なものに染まってしまう」
 心を鍛えるのが仏法である。信心である。
 鍛錬がなければ、人間は堕落してしまう。
 ドイツの哲学者カントも述べている。
 「何人たりとも訓練なくして有徳であることはできない」(御子柴善之訳「コリンズ道徳哲学」、『カント全集20』所収、岩波書店)
 本当にその通りだ。
 リーダーこそ、率先して自身を訓練していかねばならない。
 牧口先生が傍線を引かれ、拝読しておられた御書の一節に、こう仰せである。
 「摩訶止観(まかしかん)に『師にあわなければ邪(よこしま)「な智慧が日ごとに増し、生死の迷い、苦しみは月ごとに甚だしい。密林で曲がった木を引きずるように、そこから出る時期がない』とある」(御書153ページ、通解)
 だれの指導も受けない。だれからも、何も言われない。それでは、だんだんおかしくなってしまう。
 師匠がいればこそ、自身の弱さを見つめ、それと向き合うことができる。正しい人生の道を歩み抜くことができる。
 だからこそ、師弟が大切なのだ。

●善のために戦え
 一、「キューバ独立の父」ホセ・マルティは訴えた。
 「生きるということは世の中のために善を行うということである」(青木康征・柳沼孝一郎訳『ホセ・マルティ選集第2巻』日本経済評論社)
 友の幸福のため、よりよき社会の建設のために祈り、語り、行動する。
 広宣流布に生き抜く私たちは、最高の善の人生を歩んでいる。
 デンマークの思想家キルケゴールは綴っている。
 「およそ善の存在するところには、必ず勇気がともなっているものである」(『キルケゴールの講話・遺稿集4』、岩永達郎訳、新地書房)
 信仰で大切なのは勇気である。人生で重要なのも勇気だ。勇気がなければ、敵とも戦えない。
 私は青年時代、学会や戸田先生を誹謗する人間とは、徹底して戦った。厳然と、言論で勝ち抜いた。
 勇気がない。臆病。卑怯。そんなことでは、学会を守ることなどできない。特に青年部の諸君には、先頭に立って、一切の悪を打ち破ってもらいたい。

■ 一、戸田先生は、本当に厳しかった。
 私は、ずいぶん叱られた。一つ一つ徹底して訓練された。
 10年間、先生から万般の学問の教授も受けた。あまりにも偉大な先生であった。
 私には、弟子としての責任がある。約束がある ── そういう思いで、今も戦っている。
 御聖訓には、「師匠となり、弟子となることは三世にわたる約束である」(御書1070ページ、通解)と仰せである。
 これも、牧口先生が傍線を引いて拝しておられた御文である。
 仏法の師弟は厳粛である。決して簡単に考えてはならない。

● 一、フランスの大画家ドラクロアは、同じく画家であったプッサンの次の言葉を記している。
 「私は年をとる毎(ごと)に進む気がする。そしてますます向上しよう、もっともっと完全なものに近づこうという熱望に心の燃えるのを覚える」(植村鷹千代訳『芸術論』創元社、現代表記に改めた)
 年を取ったからといって、情熱を失ってはならない。
 いつまでも、心は青年のごとく! 永遠に向上の人生を! これが妙法を持った私どもの生き方である。

●自分を飾るな 皆を讃えよ
 一、リーダーは、徹して誠実であっていただきたい。
 「はたらかさず・つくろわず・もとの儘(まま)」(御書759ページ) ── 仏法では「本有無作の三身」を説く。
 形式ではない。変につくろったり、自分を偉く見せる必要もない。
 「心こそ大切」(同1192ページ)である。誠実に、ありのままの自分の良さを出していけばいいのだ。
 皆に心で訴える。心で感動を与える ── そういう一人一人であっていただきたい。
 学会の幹部は皆に奉仕する存在である。自分の思うとおりに皆を動かそうなどと考えるのは、とんでもないことだ。
 意見が合わない人もいるだろう。しかし、そういう時こそ謙虚になって、相手の話によく耳を傾けていくことだ。
 会員の皆さんは、本当に頑張ってくださっている。そうした方々を最大に讃え、ほめていくのがリーダーである。
 また、リーダーは朗らかであってほしい。そうであれば、皆、楽しい。
 そして、すべてに責任感をもつ存在であってもらいたい。それが本当の指導者だ。

●全魂の指揮を!
 一、御聖訓には仰せである。
 「この曼陀羅(まんだら=御本尊)を身に持(たも)てば、王を武士が護るように、子を親が愛するように、魚が水を頼みとするように、草木が雨を願うように、鳥が木を頼みとするように、一切の仏・神等が集まって、昼夜にわたって影のように護られるでありましょう」(御書1477ページ、通解)
 御本尊を持ち、妙法に生き抜くならば、諸天が守ることは間違いない。
 凡夫は疑い深いため、なかなか信じられない。しかし、必ずそうなっていくのである。
 また、大聖人は「法華経を信ずる人は、幸いを万里の外から集めることでしょう」(同1492ページ、通解)とも仰せである。
 妙法に生き抜く人が、幸せにならないわけがない。
 それを、ちょっとしたことで疑う。不平や文句ばかり言う。それでは、せっかくの福運も消えてしまう。結局、損である。
 大聖人は、こうも述べておられる。
 「花は咲いて木の実となり、月は出て必ず満ち、灯火は油をさせば光を増し、草木は雨が降れば茂っていく。(それと同じように)人は善根を積めば、必ず栄える」(同1562ページ、通解)
 学会活動によって私たちは最高の善根を積むことができる。一家一族が大福徳に包まれ、栄えていくことは間違いないのである。
 人生は、最後の勝利が最高の幸福である。私は、全同志の人生の勝利と栄光を毎日、心から祈っている。
 それでは、どうかお元気で! 下半期、そして明年の晴れやかな勝利へ、全魂の指揮を頼みます! (大拍手)