2016年4月11日 投稿者:螺髪 投稿日:2016年 4月11日(月)08時33分29秒 通報 『仏とは生命なり』への一考察④修正版 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ &他者貢献と帰すことは同質のもの!? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「妙法蓮華経」というのは「自身」のことです。「個」でもあります。あらゆる「生命」としての存在です。 その「生命」は、自己存在のためにあらゆる手立てを講じます。「我欲」です。その「我欲」の食指が「五欲」です。この「五欲」を行使しないことには、「生命」の存続はあり得ません。「生命」を維持し、継続し、再生して、将来につなげていくことがする「生命」にあらかじめ備えられた機能や使命であるのでしょう。食し、防御し、生殖活動する。世に三大煩悩とされるのも、ここにあります。 だが、自己存続だけでは、「生命」の永続性は担保されない。それは、生物の食物連鎖をつぶさに見ていけば、ある程度、合点のいくところです。生物が、とりわけ人間が永続性のある自己存在のあり方として、自らの中に編み出してきたのが「共存」という手立てだった言えるのではないでしょうか。 では、「自己」を永続化していくための、その手立てはどうしたら手に入れることができるのでしょうか。 俗に、「己」を克服する「克己」ということが言われますが、生き続けようとする生命体が「己」を克服するということは稀です。突き詰めれば、その「克服」の目標を達成することは、自身を抹殺するという結論になりかねません。これでは、自身の存在がなくなってしまいます。 「共存」には「貢献」や「利他」といった作業が不可欠です。もともと「欲」から生み出してきた同根のものですが、「欲」と「貢献」は、その向かい先の方向が真逆です。だが、その「欲」とは真逆のものを取り込んで、一個の生命が存続出来得ることを人類は編み出したのではないでしょうか。 このあたりの展開はトインビー博士との『21世紀への対話』に詳細でした。 それは、「妙法蓮華経」という「自己」を「何か」に帰すことと同じだとは言えないでしょうか。「妙法蓮華経」を何かに帰すこととは、実体として「南無妙法蓮華経」です。その意味で、「利他」という他への貢献と、自身を何ものかに「帰す」ということは、実体として同質のもの言えないでしょうか。 かつて、池田先生は「御本尊」のお姿が「南無妙法蓮華経 日蓮」を中央にして、こちら側に向かうような形で右側に「南無釈迦牟尼仏」、左側に「南無多宝如来」が並座(こちら側から見ると左右逆)して、地涌の菩薩の四菩薩がこれとは逆に、右側に上行菩薩、左側に浄行菩薩、その次行に無辺行菩薩(右側)、安立行菩薩(左側)に認められていることを語って下さいました。「虚空会」の法華経の会座が「立体的」に認(したた)められている、との内容だっと記憶しています。 東洋哲学研究所の川田洋一所長が語ったある講演の記録があります。記憶によれば、「御本尊」のお姿は、中央の「南無妙法蓮華経 日蓮」を「山」あるいは「谷」にして、他の仏・菩薩や十界の衆生が認(したた)められている、といった趣旨の話がありました。 誤解や、曲解が挟まれることを恐れないとすれば、「御本尊」そのものが「南無妙法蓮華経」です。言い方を変えれば、「御本尊」のお姿は「南無妙法蓮華経 日蓮」の説明です。その中央の「南無妙法蓮華経」もやはり、「御本尊」のお姿です。つまり、「妙法蓮華経」という「生命」と同じように、「南無妙法蓮華経」もこの宇宙の中で階層を成して存在しているのです。 二仏並座の「南無妙法蓮華経」を中心に据えるということは、その「南無妙法蓮華経」に自身が包まれるということと同じ意味です。「南無妙法蓮華経」の体内に自身が入ることを意味します。この時、「十界本有」ということだけでなく、「十界同時の成仏」ということが成り立つわけです。 この「御本尊」を大聖人は一幅の「曼荼羅」として残してくださったのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ &人間精神が外から取り込むものは意味! ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人体が、その生命維持のために取り込むのは、先にもあげましたように炭水化物は「糖」、タンパク質は「アミノ酸」、脂肪は脂肪酸とグリセロールです。それらを材料に自身の身体を造ります。生命維持には欠かせないものです。同じように人間精神が外なる世界の事柄を取り込むのは、「言葉」を介しての「意味」です。 かつて池田先生は、本幹終了後に、「それは難しく言うと意味連関と言って…」と少なく語られました。周辺の方に何を語られているんのかは分かりません。その言葉だけが音声に乗ってきました。「意味連関」とは「意味」と「意味」の結合と理解しました。 本尊も、私たちが心の中に取り込むのは、「その意味」としての存在ということが言えるのではないでしょうか。「因果具時」で、「一念三千」で、「十界本有」で、「十界同時の成仏」で、「根本清浄」の意味がそこにあるのかどうか。そしてその本尊に「信」が立つのかどうか。そこが「本尊」の決定的重要要素ではないのかというように思えます。「意義」と表現することもできます。「生命論」で語るならば「因果具時」であり、「一念三千」であり、「十界本有」であり、「生死」で語るなら「十界同時の成仏」であり、「根本清浄」である。そして何よりも、「信」が重要です。 「南無妙法蓮華経」がそのまま「信」であることは疑いない。その「生命」を支える「信」の実体は一体、何ものなのか。 「天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし、是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり、天台の止観に云く『起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅』云云、釈迦多宝の二仏も生死の二法なり」(生死一大事血脈抄P1337)。 これからすれば、「法性」とは、宇宙が働く根源の「力」です。「生死」は、その「法性」の起・滅をいいいます。釈迦、多宝の二仏の働きも生死の二法です。それが、衆生と究竟して同じものであるというのです。 この宇宙は「分離と結合」の産物であるといって差し支えなさそうです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ &妙法が分離や結合、開と合と同じ意味! ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ こうも仰せです。 「生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや」(三世諸仏総勘文教相廃立P563)。 「生と死」も、この「分離と結合」と同じものの別の表現だというのです。 「妙と法」もまた同じです。 「妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり又此れを当体蓮華とも云うなり」(生死一大事血脈抄P1336)。 「妙」は「死」、「法」は「生」。「生死」は単に、生まれ、死に絶えるということの意味ではない。「死」とは何ものかとの「結合」、「生」とは何ものからの、あるいは何ものかへの「開」、つまり現れることの表現だといっていい。その「生死」の繰り返しが、「妙法」という「生命」の活動そのものだということになります。 それはつまりは、「妙法」が「分離と結合」や「開と合」と同じという意味になります。 「無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、無とは法界同時に妙法蓮華経の振舞より外は無きなり有とは地獄は地獄の有の儘十界本有の妙法の全体なり」(御義口伝P754)。 仏法の知見からすれば、「生と死」は、始まりでも、終りでもない。ただ、宇宙と生命の、限りなく繰り返される「働き」だというのです。この宇宙の根源の「法」である。それを「妙法蓮華経」と名付けられた。 もうお気づきでしょうが、一面から見れば、妙法蓮華経というこの宇宙の根源の法は、私は「分離と結合」、「開と合」の法と同じものと見ようとするわけです。 一見、複雑に見えるこの宇宙の法も、その根源の仕組みを紐解けば、「分離と結合」、「開と合」の法の働きの結果にほかならない。複雑に見えるのは、「妙法蓮華経」という「生命」が階層をなし、そしてそのそれぞれの「個」も互いに影響し合い、そしてその「個」が組み合わさった「全体」も、さらにそこに組み合わさる前の「個」も入り混じって、やはり「分離と結合」、「開と合」の法に突き動かされて活動しているからだというわけです。 再演法華とされる普賢菩薩勧発品の御義口伝の次の一説はそれを端的にお述べになって見えないでしょうか。 「所詮此の品と序品とは生死の二法なり序品は我等衆生の生なり此の品(※普賢菩薩勧発品)は一切衆生の死なり生死一念なるを妙法蓮華経と云うなり品品に於て初の題号は生の方終の方は死の方なり、此の法華経は生死生死と転(めぐ)りたり」(御義口伝P802)。 「生死生死と転りたり」と仰せです。 「如と去」もまた同じです。 「本門寿量の心は事円の三千を以て正意と為すなり、(※如去の)去は久遠に当るなり去は開の義如は合の義なり開は分別の心なり合は無分別の意なり、此の開合を生仏に配当する時は合は仏界開は衆生なり、序品の始に如の字を顕したるは生仏不二の義なり」(御義口伝P782)と仰せです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ &人生の目的は歓びである! ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 喜・怒・哀・楽・愛・憎の「六情根」も、実はこの「開」と「合」の、起動の仕方の違いだけではないかと睨(にら)んでいます。同じ箇所の「開」と「合」による「振動」の仕方だけが違う。「喜」には「怒」、「哀」には「楽」、「愛」には「憎」が相対すると見られます。その基盤に、執着の意味の「著(じゃく)」がある。そうあの法華経方便品の「令離諸著」の「著」です。「愛」と「憎」が瞬く間にひっくり返ってしまうというのは、その典型かもしれません。ここらあたりは私は全くの門外漢。「脳」科学者に任せなければなりません。 かつて先生は、お好きなトルストイの言葉を記されたことがあります。 「喜べ!喜べ!人生の事業、人生の使命は喜びだ。空に向かって、太陽に向かって、星に向かって、草に向かって、樹木に向かって、動物に向かって、人間に向かって喜ぶがいい」(『トルストイの言葉』小沢文彦訳、彌生書房=法華経の智慧から)。 「使命」は「目的」と読んでもいいように思えます。 (つづく) Tweet