2016年4月11日 投稿者:螺髪 投稿日:2016年 4月11日(月)08時32分17秒 通報 仏とは生命なり』への一考察③ 修正版 いろいろな「衆生」がいます。それが十界の衆生・三千の群類です。 地獄の衆生、餓鬼の衆生、畜生の衆生、修羅の衆生、また人、天、声聞、縁覚、菩薩の衆生、そして仏もいる。 人体の臓器を見ても、全身に血液を送り続ける菩薩のような心臓もあります。小腸で餓鬼のように、ただ栄養を貪り続けるだけの絨毛(じゅうもう)突起もあります。細菌を捉えて食い殺す帝釈天か、あるいは修羅のようなキラーT細胞もあります。十界の衆生のそのままの働きで人体の維持に役立っています。 さらに修羅には属さないが、人でも、天でもない「八部衆」という衆生もいる。法華経比喩品第3に明かされる「天竜八部衆」がそれです。いずれも特殊な力、能力を持った衆生だと言えるでしょうか。 まず、梵天、帝釈、八幡大菩薩、天照大神、四天王の「諸天」が居ます。 さらに、海や池に住み、雲雨・雷電を支配するという「竜」がいる。現在なら、気象状況と言えるかも知れません。地球生命の立派な働きです。形相奇怪な「夜叉」もいる。酒肉を求めず香を求める天の楽神の「乾闥婆(けんだつば)」も、海底に住む鬼人の「阿修羅」も、竜を食べる鳥の「迦楼羅(かるら)」も、乾闥婆とともに天で美声で歌う歌神の「緊那羅(きんなら)」も、人身・蛇頭のおろちの「摩○(目編に侯)羅伽(まごらが)」もいる。なんともはや、この娑婆は鬼神でいっぱいなのです。 地獄も、餓鬼も、修羅も、鬼神らを所領するのが「四天王」です。 その「四天王」の、東方に陣取るのが「持国天」です。乾闥婆や、食人鬼の毘舎遮(びしゃしゃ)を治めます。西方に陣取るのが「広目天」です。竜や、身は臭いが餓鬼のなかでは最も徳があって浄眼で衆生を観察する富楼那(ふるな)を治めます。南方をの領主は「増長天」です。人の精気を吸い変幻自在の鳩槃荼(くはんだ)を治めます。人の心や精気を食う鬼のような衆生はけっこういますものね。そして、北方を領するのが「毘沙門天(びしゃもんてん=多聞天)」で、美しいが凶悪の夜叉や、人の血肉を食べる羅刹を治めます。治められなければ諸天は務まらないのです。 山(=須弥山)の中腹を護るのが「四天王」だとするなら、その山の頂上に居るのが「○(立心編に刀)利天(とうりてん)」です。「三十三天」(Trayastrimsa)の音訳です。山の四方に各八天があり、中央の喜見城の城主「帝釈天」を含めて三十三天とします。この地上(下天)を治めるのが「帝釈天」だというわけです。「四天王」からが天界です。 ここから場所が虚空(天上)にのぼり、「時々刻々、昼夜を分かたず歓楽を受ける」という何か神経的な快感を思わせる「夜摩天」、さらに「都卒」とも「喜楽」とも「知足」とも訳される「兜卒天」にのぼり、化自楽とも楽変化とも訳される自ら変化して楽しむ「化楽天」、そしてあの有名な他を化して喜ぶ「他化自在天」(第六天の魔王)までが「六欲天」だとされます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ &梵天、帝釈は同じものの現れ方に違い?! ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 本当は、この「第六天」の「体」を明らかにしなければなりません。 三悪から抜け出て、初めて外なる世界とのかかわりを始める「修羅」、そしてそこに特殊な能力を蓄えた「八部衆」、そしてそれらを統制する「四王天」らがその根幹にあることが想像されるのですが、どうにも私には言葉が見当たりません。「仏」とも深い関わりがありことが想像されます。「第六天」は法の番人として分断、脱命の能力も持ちます。 こんな仰せがあります。 「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり、善神は悪人をあだむ悪鬼は善人をあだむ、末法に入りぬれば自然に悪鬼は国中に充満せり瓦石草木の並び滋(しげき)がごとし善鬼は天下に少し聖賢まれなる故なり」(治病大小権実違目P997)。 まったくの私論になりますが、「梵天・帝釈等」と「第六天の魔王」は全くの同じものの現れ方の違いという仰せのように拝せます。その鍵を握るのが「元品の法性」と「元品の無明」であると。「元品の無明」とは「根本疑惑」です。その「根本疑惑」に掉させば「第六天の魔王」が生じてしまうということになります。 「梵天・帝釈等」とは、いずれも「能力」も「力」もある第一級の賢人たちです。その人達を「根本疑惑」によって「支配」しようとしてしまうのか、それとも「誘引」しようとするのか。ここに、どう現れるのかの分疑点があるということにならないでしょうか。「誘引」は内発的なものです。 ある意味、物理的に「第六天」の支配のままにしてしまえば欲望の虜です。それを、威厳(帝釈天)や名誉(梵天)、あるいは憧れや希望といった「善なるもの」に結び付ければエンパワーメント(内発性)とすることができます。エンパワーメントは「誘引」です。言葉を変えれば、「諸天」らへ外からの統制するのか、内発的な「誘引」にするのかで事態はまったく別の結果になるということが言えるかと思います。 ここに今回の創価学会問題の本質があるのではないでしょうか。急いだり、強権を使ってはならないということです。理想論に映るかも知れません。遠回り見えるかも知れません。迂遠でも、その道の方が確かなのです。人材育成と同じです。 地獄界から人界までの五道と、六欲天までの「欲界」を離れると、そこはもう色、形だけの「色界」となるものの、その最上の色究竟天(=有頂天)になって転げ落ちてしまうのが人の常なのかも知れない。この「色界」の初禅天に住むのが梵天(大梵天)だとされています。さらに名誉、栄誉といった精神性の「無色界」が天界にはあり、この欲界、色界、無色界を三界と呼びます。 三界を抜け出ると、仏道の三乗(声聞、縁覚、菩薩)と仏です。 さてさて、十界の説明に手間取りました。その個々も、全体も、「妙法蓮華経」という「生命」「衆生」です。それが「十界互具」の法華経の見方です。 方便品の十如是も「妙法蓮華経」の説明です。 「法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり始の三如是は本覚の如来なり、終の七如是と一体にして無二無別なれば本末究竟等とは申すなり」(一念三千法門P413) 三諦とは、先にあげたように空仮中の三諦、三身とはを法報応の三身、三徳とは法身・般若・解脱です。 「此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり」(一念三千法門P412) 仏とは「妙法蓮華経」です。 これは、同じことを言っている、と私には思えるのです。 (つづく) Tweet