投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 6月27日(月)15時29分49秒   通報 編集済
しかし、竜樹は妙法の〝妙〟の一字を、名医の「変毒為薬」に譬えました。

つまり、名医は病者の病を治すために、毒を調合して薬としますが、
問題は毒をいかにして病に効く薬とするかにあります。

その場合、名医の調合した毒を、患者自身の生命力で「病を治す薬」に転じているのであって、
名医は患者自身の病の状況や生命力をよく知ったうえで薬を作るものです。

名医は仏であり、患者は凡夫である私たちです。病は迷いです。

仏は衆生の迷いという病を治すために、病の源である三道そのものを逆に利用し、
それを使って病んでいる衆生の生命のなかで三徳の薬となるように仕向けているのです。

また、天台が〝妙〟の一字を「不可思議」と名づけたのは

〝就類種の成仏〟は、善因を積んで善果である仏果を成就する修行法だから、
凡夫の私たちにも理解しやすいので「思議(議論しやすい)種」としたのに対して

〝相対種の成仏〟は、すでに仏法の因果は超えていて理解できないことだから
「不可思議(議論が不可能)種」と立て分けて、そう言ったのです。

問いはさらに続きます。

「凡夫の我々にもこの秘法(相対種の成仏)の意(こころ)を理解することができるだろうか」(同頁)と。

大聖人は

「私見による〝答え〟は無益であり意味がない。竜樹も大智度論のなかで
『今、煩悩を断じ尽くした三乗(声聞・縁覚・菩薩)は、仏になれないと決まっているのに、
かえって成仏するというのは、ただ仏のみがよく知っていることである。

論議とは正しくその事を論ずべきであるが、測り知ることはできない。
だから無益な論議をしてはならない。

もし仏になることができた時は、よく理解し納得することができる。
それ以外の人は、ただ〝信ずべき〟であって、いまだ理解し納得することはできない』と述べている(趣意)」(同頁)

と竜樹の言説を紹介して答えます。

そして「法華経(方便品第二)の『唯仏与仏・乃能究尽(ただ仏と仏とのみがよく究め尽くしている)』とは、

法華経において煩悩・業・苦の三道がそのまま
法身・般若・解脱の三徳となると説いて、二乗(舎利弗)は成仏した(趣意)」(同頁)と述べました。

つまり、竜樹の〝信じるしかない〟という言葉は、誰に向けられて言ったのかというと、

別教・円教の菩薩や、普賢菩薩・文殊師利菩薩の大菩薩に対してであり、
ましてや二乗・末代の凡夫が法華経の妙法の力を知り、理解できるはずもなく、

ただ〝信ずる〟以外に「成仏の門」に入ることはできないということです。