投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 6月27日(月)15時29分11秒   通報
大聖人はどんな境遇の人であれ、末代の凡夫は
必ず〝即身成仏〟できる原理を問答形式で分かりやすく教えました。

そしてまず、疑難を投げかけてこう言います。

「今までの話を聞いて、ちょっと疑問に思うことがある。
そもそも火から水は出ないし、石から草は生じない。

悪因があるから悪果を感じ、善因は善報を生ずるのは仏法の常識であり、
定まった因果の理法である(趣意)」(御書九八三頁)と。

この疑難は私たちにとっても非常に納得できます。

たとえば、重度障害者であるグリグリの身内は生きること自体が苦しみであり、
苦しみの原因になっている障害の身は、その根源を探れば、過去世の謗法ゆえであり、

貪・瞋・癡の三毒より生じたものです。

しかもこの煩悩である三毒と苦果の二道によって、苦しみの世界に縛りつけています。

それなのにどうしてこの三道(煩悩・業・苦)が
「じつは三道が、ほかならぬ三徳(法身・般若・解脱)なのだ」と言えるのですか。

そんなこと言われても到底、納得できるものではない――となります。

大聖人はこの疑難を設けて、何と答えたかというと

「あなたの疑いはもっともなことです。私はこのことを心得ていない。ただし・・・・・」(同頁)と語り、

竜樹と天台の言説を引用して「即身成仏」の法門を明らかにし、こう述べます。

「竜樹は妙法の〝妙〟の一字を解釈して
『たとえば、大名医がよく毒を以って薬とするようなものである』といわれている。
〝毒〟とは何かというと我らの煩悩・業・苦の三道のことであり〝薬〟とは何かというと、
法身・般若・解脱の〝三徳〟である。

『よく毒を以って薬とする』とはどういうことかというと、三道を変じて三徳とすることである。

また天台は『妙は不可思議と名づける』といい
『一心に十法界を具している。あるいはまた不可思議境という。意(こころ)はここにある』といわれている。

即身成仏の法門とはこのことである(趣意)」(御書九八四頁)と。

ここまで聞いても、やっぱり仏法の因果からいえば、悪因が悪果を生み、善因が善果を生むのであって、
悪因がそのまま仏因になるという「相対種の成仏」は理解できません。