2016年6月27日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 6月27日(月)15時27分13秒 通報 さらに「法華経(譬喩品)には 『もし人が法華経を信じないで毀謗するならば、人と生まれることがあっても、 眼・耳・鼻・舌・身の五根は完全ではなく、目の見えない人、耳の聞こえない人、障害のある身と生まれるだろう。 口の息は常に臭く、貧乏でいやしい身となって人に使われ、多病で身体は痩せ細り、頼るところもない。 人から背かれ、脅迫され、盗まれるだろう――このような罪のために不慮の災難にあうであろう(趣意)』とある。 また法華経(勧発品)には 『法華経を受持する者を見て、その過去の過ちを言い出す者は、たとえそれが事実であっても、 事実でなくても、その人は現世でハンセン病を得るであろう。 もしこれを軽蔑する者は、いつの世でも牙歯はすいて欠け、醜い唇、平たい鼻、手足はもつれて曲がり、 眼はすがめ(片方の目が不自由、独眼)となり、身体は臭く汚く、悪いでき物に膿みや血がたまり、 腹には水が溜まり、短気である、などの悪い重病にかかる(趣意)』とある(通解)」(同頁) ことを紹介しました。これが仏の知見した生命の実相(十如是)です。 信じる、信じないに関わらず、これが仏法の厳しき因果です。仏は諸々の生命の実相を ありのままに見て、生命は十界を互具して永遠に続くものだと捉えていました。 それは生の生命、死の生命の区別こそあれ 〝生命は生まれ変わる〟というものではなく、変化しつつもそのまま続くということです。 大聖人は極寒の地、佐渡で〝開目抄〟を著し、その中で経典(心地観経)にある 「過去の〝因〟を知らんと欲せば、その現在の〝果〟を見よ。 未来の〝果〟を知らんと欲せば、その現在の〝因〟を見よ」(御書二三一頁)の文を通して、 迫害の本質を語り、どんなに不遇な人生であっても、 未来を幸福な人生に変えるのは、今現在の「一念」の中にあることを教えました。 大事なのはこの現実の人生をどう生きるかであり、 この人生を生きる生命それ自体の問題を解明しきる事だと思います。 それを万人に伝えるために、池田先生は初代・二代の意思を継ぎ、 あらゆる障魔の防波堤となって、学会員を育成してきたのだと考えます。 それを無視して 「学会から打ち出された戦いはすべて信心で受けとめろ」 「心の持ち方ひとつで幸福を感じられる自分になる」 などという、いわゆる〝心の持ち方論〟的な思想や教訓は、アヘン(麻薬)であり、邪義です。 Tweet