2015年1月6日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 1月 6日(火)17時58分16秒 創価学会の御本尊認定の件を擁護するならば、認定する意義としては「本尊雑乱を防ぐため」という意味合いがあるのではないか。御存知の通り、日蓮真筆御本尊もたくさんありますし、もちろん戒壇の御本尊も本物です。本物だからなんでもよいということになると、本尊雑乱の要因となり、根本尊敬であるはずの御本尊がかえって軽い扱いとなる。これ謗法につながり、組織分裂の原因にもなり得ます。 御本尊書写の権能が法主一人であったのは、これも本尊雑乱を防ぐためでしょう。決して法主に特別な力が具わっているわけではない。ここを勘違いすると只のオカルト宗教に堕す。 また、認定しなければ、組織としての統率もとれないという現実的な側面もあります。そして、日顕の御本尊を取り替えたりしているのだから、実質的にはとっくに学会が御本尊を認定し、選別していたわけです。 今回、戒壇の大御本尊を受持の対象から除外しましたが、実際のところ、どっちでもよかったことなのかもしれません。受持の対象だったとしても、学会員がわざわざ謗法の地を訪れて、拝みにいきますかね。まともな学会員なら行かないでしょう。 そういう意味で、受持の対象であろうとなかろうと、困る人はいないのではないでしょうか。 破門10年以上経過した平成14年の段階で、受持の対象としていた理由として「会員への配慮」とのことですが、そんなに配慮ができるのであれば、もっと詳しく納得のできる説明ができるのではないか。いまだに勤行時の御観念文で「大御本尊に南無し奉り」と御祈念していますが、いつまでこれをやらせるんですかね。 理論上は誰が御本尊を書写しても御本尊足り得ると思います。なぜなら、御本尊は紙(物)だからです。しかし、その紙を紙としてみるのではなく、仏としてみるところに信心があります。紙だけど紙ではないのです。 次元は異なりますが、一万円札も実態は只の紙ですが、それを只の紙として扱う人はいないでしょう。 「紙(物)なんだから誰が認めても一緒」となってしまったら、これも本尊雑乱であり、それを容認するのは信仰者の姿勢ではない。御本尊は自分の命そのものであり、仏であり、日蓮大聖人なのです。「根本尊敬」の意味をしっかり考えていく時ではないでしょうか。 御本尊を軽く考えること自体、信心のない証拠です。絶対に雑にあつかってはならないのです。況や、御本尊に関する教義変更は、どんなに時間がかかろうとも、何の問題もありません。慎重すぎるくらいが丁度いいのです。 後付けであっても、それなりに擁護をすること、繕うことはできます。すべては物は言い様ですから。しかし、現実に脱会者も出ている中、会員への配慮の姿勢を見せないとは、一体いかなる料簡であろうか。 いまだにどう解釈していいかわからない状態を放置している。 見切り発車は大火傷フラグですよ。 「自覚」と「責任」が欠如しており、非難されて当然です。執行部の「名誉回復」のためにも早急に手を打つべきです。 Tweet