投稿者:谷川の住人 投稿日:2016年 4月 3日(日)20時50分50秒   通報
学生部時代の思い出(2)

先生が会長辞任を余儀なくされた昭和54年の学生部時代、そして会員を守るために立ち上がられた昭和57年以降の社会人時代を通して思い出す事は、先生が苦境の最中に自分は何をしていたか?また、立ち上がられた時に、どのような未来を志向して自ら闘っていたのかを常々思い出します。年取ったせいですかね。(-_-)
現在連載中の(昭和五十年代)新・人間革命の舞台と自身の『人としての生き方』の今になって思い起こして、恥じない生き方をしてきたか、それとも反省と後悔ばかりが走馬灯のように現れ、ビクビク、ウロウロと隠蔽工作で手下を使い、恥の上塗りをするのか?
還暦を迎えた、学園出身のあのお方も昭和54年頃、東大をご卒業されて、ひとり幸福な科学総裁と同じように商社に入られて大学時代からの肉欲の炎に身を焦がす毎日をお過ごしだったのでしょう(-_-)このあたりは、アルベア論のギャングエイジだと思います。

しかし、多くの学生部出身者(大半の現場青年部を含む)は、この時期は地を這うような生活をして現場組織で頑張っていました。これが大多数であり宿命転換の実証を示し、今も現場の最前線で闘っています。あの昭和50年代は総罰の様相で、不況による就職不安、オイルショックによる物価高騰など社会が混迷していた時でした。
今、連載されている新人間革命の舞台裏を思い返すと、先生はその社会状況を体感しながら100馬力以上で全国を周り激励行をしていたのでしょう。まさに『広布を走れ』を歌いながらの共戦だったと思います。

第一次宗門問題当時、現場しかわからなかった私は聖教新聞でしか先生を知る手立てはありませんでした。そして、昭和54年の突然の会長辞任です。
アルバイト先の大工が既に脱会者で寺についており、グダグダ言われてもビンボー学生が週刊誌買うお金も無く『そうやって、信心教えてくれた組織を批判して楽しいですか?』と言うのが精一杯でした。第一次宗門問題の時は、週刊誌による学会攻撃と胡散臭い坊主の批判はありましたが、御授戒・御本尊下附は継続され、現場学会内は、全くコメント無しの曖昧な状態でひたすら唱題会と折伏弘教の日々でした。
この時代、良き学生部の先輩方は、先生が目指す広宣流布のために折伏弘教で実証を示そうと盛んに唱題会を開催してくれました。正月元旦勤行会にも参加出来ない(交通費も無い)部員のために拠点で十時間唱題会(昨今のおかしな祈りではありません(-_-))、あの草創期の婦人部長宅での毎週の唱題会と事ある毎に、会合打ち合わせではなく、常に題目唱えていた事を思い出します。そして、この老婦人の服装チェック(-_-)。『Aちゃん、彼女出来たろ、何だ、そのカッコは?』とか『Bちゃん(私)、なんでいつも作業服みたいな、乞食みたいなカッコしてるの、そんなに忙しくのかい?』、『C、金も無いくせに、タバコは吸っているのか?』とか皮肉をたっぷり言われ、まあ全て当たっているだけに、当時の我々はひたすら、草創期の婦人部長に叩かれぱなしでした。異性問題についても『女人は地獄の使いなり、よく仏の種を断つ、知っているか?分かってるのか?』とキビしく指導された事があります(-_-)
これらの現場組織での教育・指導?があったから、我々、ビンボー学生部員は、ギャングエイジにならずに全うな人生を送る事が出来たと今、大変に感謝しています。
昨年に投稿したクリスマスの思い出の草創期の婦人部長ですが、葬儀には身寄りが無いにもかかわらず、数百人が訪れ、男女ヤングリーダーが涙ながらに送る言葉を述べて皆涙を流しました。病床で倒れる数ヶ月前まで男女青年部を鍛えていた事は、会葬に訪れた者の数を上回る人材を育てていたのであり、この姿が広布の母の実証であり、彼女にとっての今生の思い出だと思います。自分もそこまで及ばないとしても、かくあるべきだと決意しました。また、先生がおっしゃる『無名、無冠に誇り』の生き様だと深く決意しました。
(続く)