投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 1月 4日(日)22時19分30秒   通報

lupin iii様
お褒めいただきありがとうございます。光栄の至りです
「正しいことは正しい」、「間違っていることは間違っている」と言える世界こそが、創価学会の世界であると私は思うのです。組織の論理に支配され、正義が蔑ろにされるようなことがあれば本末転倒であり、それは宗教にとって「死」を意味します。

組織感覚が身についてくると、空気を読んだり、バランス感覚が養われます。しかし、日本人というのは組織に忠実で、上には逆らわないというマインドを元々備えているので、飼いならされた「イイコちゃん」になってしまいがちです。体制側が正義ならいいのですが、悪に転じた時に、その片棒を担ぐ存在になる可能性が大です。

何事にも原則と例外があります。普段は組織に忠実でも構わないと思いますが、いざという時(組織が間違いを犯した等)に声をあげられるか。54年の問題も、おかしいと感じた幹部はいたと思います。しかし、声をあげなければ正義は見殺しにされ、無意味です。思っていても、行動に移せなかったら、結果として思っていないのと同じだからです。

私は、自分の「感覚」というものを大切にしてほしいと思うのです。自分が「おかしい」と感じるものは、往々にしてどこかおかしいものだからです。その違和感を無視して、事なかれ主義に流されていくところに不幸という現象が生じる。

なかんずく、違和感を感じることは、道理に反していることが多いです。仏法でも三証を重視しているのは、そこにこそ納得があるからでしょう。

道理に反する人間がやることは「理不尽」であり、その代表が日顕であると私はみています。
創価学会を破門にすることは、2,3人を破門にするのとは訳が違う。1000万信徒が戒壇の大御本尊を拝めなくなるということであり、何の罪もない会員を断ち切る愚行。

御書を拝しても、大聖人は門下の人々を、それはそれは大切にされていたことがうかがえます。
御書の多くは、門下の供養の品に対しての返礼のお手紙であり、手紙の冒頭部分では必ず、「~をたしかにいただきました」と丁寧に書かれている。供養の品の一つひとつの真心を絶対に蔑ろにしないのが大聖人の振る舞いなのです。

その精神を受け継いでいるはずの法主が、無情にも1000万信徒を破門にするとは一体どういう料簡か。いかなる理由があろうとそんなことは許される行為ではなく、人の道ではありません。
一切衆生を救っていく代表であるはずの法主が、それをやったらおしまいであり、無慈悲極まりない。

長くなりましたが、これからもlupin iii様の、率直な男気溢れる投稿楽しみにしています。
PS.ふじ子様にくれぐれもよろしくお伝えください