投稿者:赤胴鈴之助 投稿日:2016年 6月20日(月)10時50分12秒
修利槃特と提婆達多の相対
すりはんどくと、だいばだったのそうたい
ずいぶんと、まえのはなしですが「ぶんしょうをかく」というくんれんを、うけていたときに、
あるせんぱいから、きょうれつにばりばとうされながら、しこまれたことがあります。

「おまえのぶんしょうはよわい。よみてには、なにひとつこころにささるものがない」
「おまえのぶんしょうは、ぼくとうのぶんでしんけんのぶんではない」
「こんななんじゃくなぶんで、どうしてあくをきることが、できるんだッ」
「ダラダラかくな、この1ぺーじA4ぜんぶんを、4ぎょうにまとめなさい」とう々とう――。

それはそれは、きびしいくんれんでした。
べつに「ぶんをかく」プロをめざしていたわけではなく、くわしいことはかけませんが、

あるひ、あるとき、いけだせんせいが、しつむしつで、つかっていたまんねんひつを、いただいたのがきっかけで
「よし、げんろんペンの、とうしになろう」とはらをきめ、けついしたのがそのはじまりです。

せんぱいはいいます。

「せいめいのじっそうをといた、ごほんぞんのまえにたんざし、
なむみょうほうれんげきょうと、となえるだけでせいめいを、よいほうこうへてんかんすることができる。
なぜそこまでだいしょうにんのぶっぽうが、わかりやすいか、わかるか。そうしないとまっぽうのしゅじょうはりかいできないからだ」と。

かんがえてみれば、そのとおりかもしれません。

かんたんなことを、かんたんにひょうげんすることは、かんたんです。
むずかしいことを、むずかしくひょうげんするのも、かんたんといえばかんたんです。
かんたんなことを、むずかしくひょうげんするのは、ひねくれものです。
むずかしいことをかんたんにひょうげんできて、はじめていだいなのだとおもいます。

いっさいきょうというぼうだいなきょうてんをけんさんし、きょくたんすぎるほどわかりやすくかいせつし、
だれにでもじっせんできるほうほうをしゅじょうにおしえたのが、ほとけ「にちれん」のちえです。

まっぽうにしゅつげんした、ほとけのさいだいのじひで、だれにでもかわりやすく、といてくれたのですから、 まっぽうのよにいきるひと々びとは、すなおにそれを「しんじて」、じっせんするしかないのではないでしょうか。

にちれんぶっぽうは、じっせんじゅうしのてつがくなのですから――。

さて、まきぐちせんせいは、みんしゅうがもれなくこうふくになるためには
「だいしょうにんの、ぶっぽうをしんこうするしかない」とうったえ、

がっかいいんが、じっせんすべきしんじんのきほんは「しん・ぎょう・がく」にあるとのべました、まきぐちつねさぶろうぜんしゅうはちかん。

このまきぐちせんせいのおしえは、だいしょうにんの

「いちえんぶだいの、ごほんぞんをしんじさせたまへ、あひかまへて、あひかまへて、
しんじんつよくそうらいて、さんぶつのしゅごをかうむらせたまうべし。

ぎょうがくのにどうを、はげみべしそうろうべし、ぎょうがくたへなば、ぶっぽうはあるべからず、われもいたし、ひとをもきょうけそうらへ、
ぎょうがくは、しんじんより、をこるべくそうろう、ちからあらば、いちもん、いっくなりとも、かたらせたまうべし」ごしょ1361ぺーじ

のおんふみが、きほんになっているといわれます。

ごしょをちゅういぶかく、よんでいくと、ふぼのおん、ししょうのおん、くにのおんをほうずるためには、

ぶっぽうをならい、きわめる「きょうがくけんさん、(がく)」のじゅうようせいがかたられ、
ふきょうぼさつのじっせんをとおして「ぶつどうしゅぎょう、(ぎょう)」のもはんをしめし、
きょうてんの、こじをいんようして「しんこうのありかた、(しん)」をだいしょうにんは、おしえています。

ごしょをちゅういぶかく、よんでいくと、ふぼのおん、ししょうのおん、くにのおんをほうずるためには、

ぶっぽうをならい、きわめる「きょうがくけんさん、(がく)」のじゅうようせいがかたられ、
ふきょうぼさつのじっせんをとおして「ぶつどうしゅぎょう、(ぎょう)」のもはんをしめし、
きょうてんの、こじをいんようして「しんこうのありかた、(しん)」をだいしょうにんは、おしえています。

ぜんかいのろんこう「そうかしそうのえいえんせいとぐうぞうか」、「にょせつぎょうとふきょうぼさつのじっせん」にひきつづき、
こんかいはしんこうのありかた、(しん)について、かんがえていきたいとおもいます。

なお、じょうきふたつの、ろんこうと、こんかいのろんこうは「しん・ぎょう・がく」を、テーマにした、さんぶさくになっています。

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すりはんどくと、だいばだったのそうたい 2
しょきにさくせいされた、げんしぶってんのひとつに、
しゃくそんの、ししんてき、ようその、ごろくをあつめた「ほっくひゆきょう」というきょうてんがあります。

このほっくひゆきょうのなかには、しゃくそんのでしである〝すりはんどく〟のこじがしるされています。

だいしょうにんは、みのぶにごくようの、しなじなをもって、おとずれたでし、にしやまどのたちに、このしゅりはんどくのこじをとおして、

「あなたがたは、どのような、かこせのぜんこんで、にちれんをたずねられるのであろうか。
よくよくかこをおたずねになれば、なにはともあれ、このたびは、しょうじのまよいをはなれることが、できるであろう」。

すりはんどくは、さんねんかんに14じすら、あんしょうできなかったけれども、ほとけになった。
だいばだったは、ろくまんぞうを、あんしょうしたけれども、むげんじごくにおちた。

このことは、ひとえにまつだいの、いまのよのことを、あらわしているのである。
けっして、たにんごととおもってはならない。
もうしあげたいことは、おおくあるがここでとめておく (つうげ)

(ごしょ1472ぺーじ)としどうしました。

このおんふみのじゅうようなポイントは「でしどうしのそうたい」です。

つまり、しゃくそんのふたりのでしである
しゅりはんどくは「さんねんかんに14じすら、あんしょうできなかったけれども、ほとけになった」のにたいして、
だいばだったは「6まんぞうを、あんしょうしたけれども、むげんじごくにおちた」という、すりはんどくと だいばだったのそうたいです。

これをきいたみなさんは、

「ああ~、じぶんはバカでよかった。これでじぶんも、じょうぶつできるぞォ~」とあんしんしてはいけません。

もんだいは、なぜしゅりはんどくがほとけになれたのか、
なぜしゅりはんどくは、さいしゅうてきに、14もじをおぼえることができたのかということです。

ほっくひゆきょうによれば、しゃくそんが、しゃえこくにいたとき、すりはんどくがあらたな、しゃくそんのでしになりました。
しかしかれは、はんだんりょくがなく、りかいりょくがなく、あたまがわるく、のろまで・・・・とうとう、ぐどんなせいしつで、

たのあらかんが、さんねんにわたって、ひび「いちげ」をすりはんどくに、おしえたが、
ただのいちげも、あんしょうすることが、できなかったとといています。

そして、くにじゅうのひとびとに、すりはんどくのぐどんが、しれひろまったとあります。

ししょうであるしゃくそんは、このことをあわれんで、かれをまえによび、
なにをおしえても、どうおしえても、おぼえられないしゅりはんどくに、14もじだけをおしえました。

その14もじとは

「しゅくしゅうい、しんまくぼん(くちをまもり、こころをおさめ、しん、ひをおかすことなかれ)」
「にょぜぎょうじゃ、とくどせ (かくのごとくぎょうぜば、よをどすることを、える)」です。

つまり「しん・く・い」で、あくごうをつまないようにしなさい。
そして、いわれるままに、しゅぎょうしていけば、じょうぶつすることができますよとおしえたのです。

そのけっか、かれはししょうのいうとうり、すなおにじっせんして、
のちにとかれたほけきょう(500でしじゅきほん、だいはち)で、すりはんどくはじょうぶつし〝ふみょうにょらい〟の、きべつをうけています。

いっぽう、 だいばだったは、6まんぞうをあんしょうできるほどの、きおくりょくのもちぬしでした。

それは、ちえだいいちといわれた、しゃりほつとかたをならべるほどの、ずのうめいせきで、ゆうしゅうなでしだったのかもしれません。

しかもしゃくそんのいとこです。
まわりのでしたちからは、いちもくおかれてとうぜんの、そんざいだったでしょう。

もしかしたら、ししょうのしゃくそんよりも、だいばだったのほうが、うえなのではないかと、おもうでしもいたかもしれません。

しゃくそんが、せっぽうをすれば、そくざにりかいし、
それをそくざにじぶんのことばとして、かたれるだけのものをもっていたとおもいます。

しかしそれは、すなおにししょうのことばをしんじ、つたえるのではなく、ししょうであるはずの、しゃくそんでさえも、 じぶんのかざりに、りようしてしまう、ごうまんなこころと、ずのうと、けいさんがあったとしても、ふしぎではないでしょう。

だいばだったにとって、そののうりょくが〝あだ〟となり、ぞうじょうまんにおちいって、ししょうにはんぎゃくし、
けっきょくは、いきながらにしてむげんじごくに、おちてしまったのです。

しゅりはんどくのようなでしは、いまのよではむしろまれです。もんだいなのは だいばだったです。

なぜ だいばだったは、ろくまんぞうをあんしょうできるほどの、ゆうしゅうなのうりょくをもちながら、
むげんじごくに、おちなければならなかったのでしょうか。

そのこたえは、しゃくそんがしゅりはんどくにおしえた、じゅうよんもじのなかに、あるのではないかとかんがえます。

ほうくひゆきょうには、しゃくそんから、じゅうよんもじをおしえられた、しゅりはんどくは
「ほとけのじおんをかんじてげをじゅしてくちにあがらせた」ととかれています。

しゅりはんどくはそのぐどんさゆえに、ししょうのことばをうたがわず、ひっしになってまもったとおもう。

「わるいことはしない「しん」。まちがったことはいわない「く」。がけんをもたない「い」」――。

ただそれだけが、ししょうのじおんにこたえることだとしんじてうたがわなかったのだとおもいます。

ししょうをしんじ、ししょうのだいじひにむくいんとするほうおんのいちねんが、
ぐどんのしゅりはんどくにしてやっと「いちげをくちにあがらせた(おぼえた)」のだとおもいます。

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すりはんどくと、だいばだったのそうたい 3

さらに ほっくひゆきょうには

「それをみたほとけは、つぎのようにつげて、ほうをときはじめめた『なんじはいま、としおいて、まさにいちげをえることができた。
いま、なんじのために、そのぎをかいせつするから、いっしんにきくように』と」のべ、

ほとけは〝みさん、くちよん、いさん〟のぜんあくぎょうをとき、そのおこりとしょうめつ、 さんがい、ごどうの、りんてん、しょうてんと、だじごくのりゆうをかたり、ねはんをえるみちをとききりました。

そのとき「しゅりはんどくの、こころがひらけて、あらかんのみちをえた」としるされています。

そのご、しゃくそんがしゅりはんどくを、ともって、こくおう(はしのく)のもとに、おとずれたとき、

おうがしゃくそんに「しゅりはんどくは、ほんしょうぐどんであるときいている。
それなのに、なにによっていちげをしり、みちをえることができたのか」としつもんしました。

しゃくそんはおうにこたえます。

「がくは、かならずおおくはひつようとしない。まなんだことを、じっこうするをじょうとなすのである」とおしえ、
さらに、げをといて「いちほっくをげするも、ぎょうぜばみちをうべし」と、といたとしるされています。

しゅりはんどくと だいばだった。

このたいきょくにあった、ふたりのことを、だいしょうにんは
「このことは、、ひとえにまつだいのいまのよのことを、あらわしているのである。けっして、たにんごととおもってはならない」

とでしたちに、けいこくをこめてうったえました。

だいばだったにしても、さいしょは、みずからのさいちをじかくし、そのちにおぼれないように、ようじんしていたとおもうのです。
しかし、じぶんはししょうのいとこだという、うぬぼれから、みずからをかえりみることができなかったのでしょう。

このてんは、しゃくそんにしっせきされ、それいこう、かげのたたかいに、てっしぬいた、みつぎょうだいいちの「ラゴラ(しゃくそんのむすこ)」とたいしょうてきです。

そしてもうひとつ、 だいばだったには、どうしてもしゃくそんをゆるせない「おとこのしっと」ともいえる、できごとがありました。

だいしょうにんは

「ほとけは、じょうぼんおうのたいしであり、 だいばだったは、こくぼんおうのこである。
きょうだいのしそくであるから、ほとけにとってはいとこであったが、いまもむかしも、せいじんもぼんぷも、 ひとのなかをたがえるのは、にょにんのことからおこるのが、だいいちのあだとなるのである。

しゃかにょらいが、しったたいしのとき、 だいばだったもおなじたいしであった。
ヤシュだいじんにむすめがあり、ヤシュダラといった。
ぜんインドだいいちの、びじょでそのなは、しかいにきこえたてんにょである。

しったたいしと だいばだったは、ともにきさきにしようとしてあらそったので、、なかがわるくなったのである(つうげ)」
(ごしょ1040ぺーじ)と だいばだったのエピソードをしょうかいしています。

つまり、ヤシュダラはしゃくそんがたいしだったときのつまです。
そのできごとが、ヤシュダラへのよこれんぼだったとしても、 だいばだったには、どうしてもゆずれないこと、だったのだとおもいます。

ちなみに、かつてしゃくそんのつまであったヤシュダラは、のちにしゅっけししゃくそんのでしになりました。
そしてほけきょうかんじほんでじょうぶつのじゅきをうけ、にょにんじょうぶつのあかしとされています。

いずれにしても、 だいばだったは、じぶんのよくぼうにしはいされ、
がけんとまんしんから、はんぎゃくのかぎりをつくし、じごくへおちてしまったのです。

むさぼり、いかり、おろかのせいめいにしはいされ、どこまでもがけんを、ひだいかさせた だいばだったのすがたは、
げんだいにおいて、だれもがおちてしまう、わな、なのかもしれません。

しかし、ぞうじょうまんに、おちいっているひとは、けつしてじぶんがそうなっているとはおもいません。

おおくのどうしが、ちゅうこくしているにもかかわらず、われこそは、ほんもののでしだとして、そんだいにふるまい、
すりよってくるものだけを、だいじにしているような、ぶつでしがいたならば、
まちがいなくそのひとは、 だいばだったのけんぞくであるとかくしんします。

ぜったいに、じぶんがそうならないために、どんなにぐどんでもよい、じぶんに、じしんがもてなくてもよい、なげくひつようもない。

ししょうへの、ほうおんをちかう、でしならば、げんだいのすりはんどくとなって、ししょうのことばをしんじ、
ししょうのことばに、がけんをくわえず、すなおにしんじゅし、じっせんすればいいのです。

じょうぶつのみちは、ほとけをしんじ、たとえ、いっくでもそれをじっせんし、そのいっくをひとにかたっていくことが、じゅうようなのです。

なぜなら「ちからがあれば、いちもんいっくでもかたっていけ」とは、だいしょうにんのげんめいであるし、
「ぎょうがくは、しんじんよりおこる」1361ぺーじとは、だいしょうにんの、ししくだからです。

なにもむずかしくはありません。

ともあれ、すりはんどくは、しゃくそんをしんじてうたがわず、
しゃくそんの、ことばどおりにじっせんし、ついにほけきょうでほとけになることができました。

しゅりはんどくの、こじをとおして、だいしょうにんはでしたちに「しんこうのありかた」をおしえてくれているのだとおもいます。

さいごにいけだせんせいのしどうをしるしておわります。

 どんな、きべんや、すりかえにも、めをくもらされてはならない。じじつをせいかくにみることだ。
いかなるりゆうをつけようとも、むりょくなしょみんを、けんいでいじめ、くるしめることは、あくである。
いわんや、ぶっぽうをならうものとして、そうしたこういがあれば、そのにんげんは、キリストきょうのうちでも もっとも、しゅうあくなせいしょくしゃに、そっくりということになる。いわゆるげどうのなかのげどうである――

きぼうのあすへ、(へいせいさんねん、いちがつ、16にち )