大哲学者プラトンに学ぶ。
投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月10日(水)10時02分23秒 返信・引用

さて、「プラトンすなわち哲学者であり、哲学すなわちプラトンなのだ」とうたわれた、大哲学者プラトン。
彼の晩年の口ぐせは何であったか――。それは決してむずかしいことではなかった。
一つは、「ありがたい。じつに、ありがたい」という感謝の言葉であったという。何がありがたかったのか。

第一に
「人間に生まれたこと」であった。動物などではなく、人間に生をうけることが、どれほど希な、ありがたいことであるか――。
仏法でも、この点を強調している。

第二に
「アテネ市民に生まれたこと」。私どもでいえば、仏勅の「創価学会員」となされたことが、これにあたるであろう。

そして、第三に
「ソクラテスの弟子となったこと」である。
次元は異なるが、私どもは、御本仏日蓮大聖人を根本の師と仰ぎ、殉教の牧口先生、戸田先生の門下として、「世界広宣流布」の大偉業に邁進している。これほど尊く、ありがたい人生は絶対にない。
そのすばらしさを自覚できる人は幸せである。
限りなく境涯を開けていける。
学会の存在を、決して甘く考えてはならない。

プラトンは八十歳まで生きたと伝えられる。
「ああ、ありがたい。じつに、ありがたい」。
老哲学者の、なんと澄みきった心境であろうか。

さて、もう一つ、プラトンがつねに語っていた言葉は「何も心配ない」であった。
晩年の大著『国家』にも、「人の世に起る何ごとも大した真剣な関心に値するものではない」とつづっている。

かといって、何の苦労もない、平穏な人生だったわけではない。正反対であった。波乱万丈の一生であった。

師匠と仰いだソクラテスが殺された。

みずからも亡命を強いられた。
奴隷に売られたこともあった。
幽閉され、命をねらわれ、卑しき人々に侮辱され続けた。
また、仲間や政治家(王)にも裏切られた。
自分の教えを守らない弟子たちにも苦しめられた。
門下の軽率のため、本来、被害者である彼が、加害者のごとく非難されたこともあった。
「哲人政治」の理想への道は遠く、あらゆる苦悩を経験した。

それでも、なお彼は若き日の師への「誓い」に生きぬいた。
著述に、人材の育成に、社会への働きかけに――最後の一瞬まで、戦いぬいた。
十界でいえば、「菩薩界」のような献身の生涯であったと思われる。

そうした「戦士」の結論が、「何も心配ない」であった。
鍛えに鍛えぬかれた「大安心」の境涯であった。

たとえ、その時は「たいへんだ、どうしようか」と思われるようなことでも、過ぎ去ってみれば、何でもない、小さなことに見えてくる。このことは、戸田先生もよく言われていた。そうした境涯の高みから、すべてを悠々と見おろして、三世にわたって堂々と生きぬいていく。それが真の仏法者である。

何も心配ない――。
次元は異なるが、大聖人は、より一歩進んで「難来るを以て安楽と意得可きなり」(御書七五〇頁)
――難が来たことをもって安楽と心得るべきである――と仰せである。

大聖人の御一生は、二度に及ぶ流罪をはじめ、迫害また迫害、難また難の連続であられた。
いったい、どこに安楽があるのか――多くの門下のなかには不信を起こす者もいた。

しかし、大聖人は難こそ安楽であると述べられ、さらに、繰り返し繰り返し、「幸なるかな」(御書五〇九頁)、「悦ばしいかな」(同頁)、「大に悦ばし」(御書二三七頁)、「あらうれしや・あらうれしや」(御書五〇五頁)等と仰せになっておられる。また「幸なるかな楽しいかな」(御書九七五頁)との大境涯であられた。

難が起こるときは、経文に照らして必然である。
広宣流布が進めば進むほど、それを妨げようとする「三障四魔」の働きがますます強くなることは当然であり、ある意味で仕方のないことである。避けようがない。

ゆえに、大切なのは、それをどう「変毒為薬」し、新たな前進への力としていくからである。
嵐が吹きすさぶたびに動揺したり、ただ嘆いているばかりでは意味がない。
何が起ころうとも、一切を広宣流布への《追い風》にしてみせるとの強靭な「一念」さえあれば、必ず道は開けていく。

「現在」からつねに「未来」を志向し、ただ前へ、そして前へと進みゆく――この「現世二世」の信心で今日までの学会の大発展の歴史は築かれてきたのである。

「難」がなければ、真の「仏道修行」ではない。
「戦い」がなければ、真の「幸福」もない。それでは本当の人生とはいえない。成仏もない。
「煩悩即菩提」である。「罰即利益」である。こう定めた信心に行き詰まりはない。

【県・区夏季研修 第二回長野県総会 平成三年八月四日(大作全集七十八巻)】