投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 3月28日(月)05時39分24秒   通報
仏国土とは、人間主義を基調とした社会を指す。創価学会の使命も、いかに人間主義の社会を構築していくかにある。人間主義の根幹は、共感であり同苦です。そこに納得と満足がある。そして人間主義の振る舞いは、「聴く姿勢」にあらわれる。聴く姿勢がまるでなっていないのは、人間主義ではない証拠であり、これ、魔性である。

ある学会系の書籍では、心の病をなくしていく方途として、「菩薩界の人間を増やすこと」があげられている。菩薩界の根底も人間主義である。ちなみに、功徳を必要以上に強調して戦わせること(例:法戦の功徳は折伏よりも上等)は餓鬼界、官僚主義は畜生界、成果主義は修羅界に堕する可能性が高いので、反価値です。我々が「地涌の菩薩」である意味を噛みしめてまいりたい。

人間主義を基調としなければ、社会に歪みが生まれる。そして人間主義は、生命尊厳の最高哲学である、日蓮仏法を根本とした時に実現する。個々においては、身口意における南無妙法蓮華経(万人が仏)の実践である。仏意仏勅である創価学会は、人間主義であり続けなければならない宿命にある。それでこそ仏意に適っていると言えるからだ。もしも無条件で、創価学会が仏意仏勅であると思っているとしたら考えが甘すぎる。広宣流布を推進するということは、人間主義を阻むもの(魔)との壮絶な戦いを意味する。それは、創価学会内においても同じである。

「信」を根本とした時に人間主義となり、「不信」を根本とした時、官僚主義・成果主義となる。人間を信じ、尊重した時に、人は耳を傾けることができる。反対に疑い、決めつける傲慢さがあれば、耳を傾けることができない。その根底にあるのは、御本尊への不信であり、それを謗法という。いま問われていることは、執行部や公明党に、聴く姿勢があるか否かということです。それがあるように見えないから、おかしいのではないか、なにか狂っているのではないかと疑われているわけです。要は、「信頼を失っている」ということです。

体制側の人間は、宿坊の掲示板を閲覧して、「いかに信頼を回復していくか」を考えていくことが価値であり、「気づき」というものです。信頼を回復するには、人間主義に意識をシフトチェンジしていくしかありません。それができなければ、いつまで経っても変わらないどころか、益々腐っていく。これでは、広宣流布どころではなく、どこぞの宗教と同じレベルに堕してしまう。失敗したと自覚するまでは気づけないのが、人間の愚かな一面ではありますが、くれぐれも未来の学会員から、「本当どうしようもないやつらだな」と、失笑されるようなことにならないようにお願いしたいものである。