投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2016年 3月27日(日)11時45分27秒   通報
池田大作全集83巻
関東会第十二回研修会 (1993年8月17日)より抜粋②

【大悪と戦わぬ利己主義は悪】

先日(八月八日、第六十九回本部幹部会)も触れたが、牧口先生は「塵も積もれば山となる」ということわざについて、こう語っておられる。

「よくよく観察してみると、塵が積もって出来た山はない。それでは、せいぜい塚くらいのものしか出来ない。現実の山は、天地の急激なる大変動のために出来たものである」と。

このことを通して牧口先生は、″小善を積み上げていけば、やがて大善の境涯に至る″という考え方に反対された。

そして、急激な大変動によって山ができるように、すぐさま大境涯へと至る方法があるとされた。それは妙法の実践であり、なかんずく″大悪と戦うこと″である。

「悪人でも大悪に反対すれば忽ち大善になる」と──。

魔の勢力とは徹して戦い切っていく。その戦いこそが、「大善」の仏の境涯をもたらすことを教えられたのである。

牧口先生はまれにみる大哲人であられた。
日淳上人は、牧口先生は「法華によって初めて一変された先生でなく、生来仏の使であられた先生が、法華によって開顕し、その面目を発揚なされたのだと、深く考えさせられるのであります」とたたえておられる。

一方、″小善をこつこつと積み上げていけばよい″とする人について、牧口先生は、そのような小善の人間は「衆愚(多くの愚かな人々)にほめられることを喜び、大悪に反対する勇気もなく(中略)悪を好まぬだけの心はあるが、善をなすだけの気力のないのは、個人主義を脱しきれないからである」と。

大悪と戦わず、戦えないのは利己主義であり、ただ世間の人にほめられたい、よい格好をしたいという臆病さなのである。

そして、このような人は、「可もなく不可もなく、いてもいなくてもいい人間である」と厳しく指摘しておられる。

中途半端な「小善の人間」になってはならない。大悪と戦う「大善の人」であれ──これが私たちの偉大な創立者の叫びであられた。

大悪と戦うときに初めて、爆発的な勝利があり、前進があり、成長がある。″戦おう″という一念が弱い人は、自分自身が、病魔をはじめ魔につけ入られてしまうであろう。

(続く)