投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 3月21日(月)06時17分29秒
yさん

>改正、安保も根本の問題からすれば、枝葉であり派生的に表に現れた小さな問題に過ぎないということでしょうか<

改正や安保について、賛成・反対・中立の意見があって当たり前であり、仏法者が観ていくものは、その奥にある一念です。改正は、信仰の根幹に関わる問題で、安保は個々の政治信条に踏み込む問題です。共通しているのは、どちらも大変デリケートな問題ということです。結論ありきの議論では、相手の心に土足で踏み込むような話であり、それを対話とは言いません。また、ベクトルが違い過ぎても対話にはなりません。

新・人間革命7巻より
「対話なき組織は、いつしか官僚主義の悪弊に流され、人間の温かな心の通わぬ、冷たい管理制度に堕してしまう。伸一は、組織が大きくなればなるほど、そこに人間の血を通わせるために、命を削る思いで、渾身の力を振り絞って、対話を重ねようとした。」

これが先生の心です。この心を受け継ぐことが師弟の道です。創価の師弟不二は、師に心酔することや、絶対とすることではなく、心(一念)の継承です。先生の言葉ではなく、その根底にある心を感じ、体現していくことが弟子です。逆に、言葉にとらわれ過ぎると、心が見えなくなる。現在の学会には、「永遠の師匠」という言葉は存在しますが、肝心要の創価三代の「心」が見えなくなってきているからこそ、宿坊の掲示板で、「おかしくないか?」と議論されているわけです。私は、yさんが長きに渡り、オカラ論を実践してきたことは、先生の心を受け継いで戦ってこられた証拠であり、そこに師弟があると感じます。

大事なのは、「今」の繁栄でありません。10年、20年、数十年、数百年先の創価学会の未来なのです。自分の足元を固め、目の前の人を大事にすることは大前提としながら、その上で未来を考えていくこと。今に追われ過ぎると未来が見えなくなる。思考する余裕がないというのは異常である。思考するということは疑うということです。「このままでいいのか」、「本当に正しい道なのか」等、考えることによって、様々な考えを受け入れる素地が整う。それが出来ない人は一方的となり、対話ができなくなる。宿坊の掲示板で投稿したり閲覧したりすることは、考えるきっかけとなるので、それ自体、意味があることなのです。

学会から創価三代の心が失われたら、「先生を讃嘆しながら、先生の心を殺す」という状態になります。学会中枢の対応に、創価三代の心を感じないからこそ問題なのです。これでは、遅かれ早かれ、おかしな学会になってしまうという懸念があるのです。もちろん昔からおかしな部分は多々ありますが、それでも先生が矢面に立って、学会を守ってこられたからこそ、多くの会員がついてこられたのです。では、これからは、先生に代わって誰が学会を守るのか。それは、「先生の心を受け継いだ弟子」にしかできないということです。だから、「師弟不二」が肝心なのです。

先生の心を受け継いだ弟子こそが「創価の英雄」です。54年は先生の心を受け継ぐどころか、殺してしまった。54年の総括というのは、自分自身が、先生の心を受け継ぐ、誓願と祈りと行動があってこそ完結する。他の誰かではない。そして誰もが、創価の英雄になれるのです。