投稿者:蘭夢 投稿日:2016年 3月20日(日)12時40分5秒   通報
聖教新聞の劣化、みなさん等しく、感じておられるのだと、最近、改めて認識した。
紙面に対する意見は色々あるけれど、それはさておき、気になることとしては
先生が指揮をとられていた時
聖教新聞には、様々な気づきや触発、歓喜があったように思う。
それが、今は感じられないように思う。
なぜ、そうなのか、モヤモヤした違いとは何なのか。
昔、聖教新聞は、先生から会員にあてた手紙である。そう言われていた。
やはり、先生の魂がこもっていないことは隠しようがないということだろうか

だが、先生が未来永劫、不死であるわけでもない。
いつかは弟子が、引き継いでいかなくてはならない。

そのことを踏まえて、どうしていけば良いのか。

どうか、紙面を作成する方々は、先生からのお手紙であるという意識をもっていただきたい。
自身の生命の内奥にある、先生の心を感じ取り、何とか、会員一人一人に先生の心を伝えていきたい。
そういう想いでどうか、努力をお願いしたい。

先生は、常に先を見られていた。
世界というものを俯瞰し、今の時を感じて、今、会員に何を伝えていけば良いのか。
まさに仏智である。
真剣に一人一人の会員を思いやり、祈り切らねば、わからない。
広宣流布と意味もなく連呼していけば良いものではない。
今、一人一人の会員は、どうしているか、困っていないか、苦しんでいないか。
東北はどうだ、沖縄はどうだ。
様々なこと、一切を苦悩し祈りに一念に億劫の辛労を尽していく
その時、どう、励ましていけば良いか、言葉が浮かんでくるはずだ。
その想いを記事にしていただきたい。
先生の万分の一でも、元気を勇気を与えることができればと・・・

もちろん、そのような想いで記事を書かれている方も多数おられる。
ただ、残念ながら、長の一念であろうか、新聞全体でみたときに、読者は鋭敏に感じ取るものだ。

組織といい、構造といい、非力な一人では何もできないかも知れない。
だが、否、だからこその人間革命といえよう。
そこ、自身がいる場所こそが、自身の人間革命の舞台。
そして、信心でみるならば、依正不二である。
ならば、因は、自身の生命の一念にあり。どうか、全ては、自分自身の生命の奥の一念にあることを自覚いただき
先生と不二の一念にて日々を戦われることを祈ります。