投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 3月 9日(水)23時34分49秒

陽報様

>例え先輩でも、違うのでは?という感性だけは持っていたいと思いました
盲従するのではなく<

仏法は道理ですので、納得をさせることができないこと自体が、指導力不足と言えましょう。指導をする側は、納得をさせることができないということは、何かが間違っていると考えるべきです。道理に反する何かがあるから、納得が生じない。ここに目を向けなければ、指導も自己満足に陥ってしまう。

21世紀は心の時代ですから、納得なしには、新時代の広宣流布の道は開かれない。現状の多くは、会員の我慢と忍耐と信心で何とかなっているだけであり、それがずっと続くと壊れていきます。創価学会を壊す元は、日常の何気ない小悪を放置し、軽くみていく慢心の中にあります。一つひとつの小悪は、現場の会員が「自分が我慢すればいいんだ」と強盛な信心で耐えてくれますので、何事もなく過ごせます。しかし、その歪みは、必ずあらわれます。

おかしいものをおかしいと思える感覚を「まとも」といいます。官僚主義や組織主義にどっぷり浸かってしまうと、おかしいものをおかしいと思う感覚が麻痺します。少し話は違いますが、ホロコーストにおいて、収容されていた人々は、段々表情がなくなっていったようです。それは、あまりにも理不尽な目に遭うと防衛本能で、感情を出さなくなり、結果、顔の表情もなくなっていく。もしも感情を出してしまったら、心が崩壊するからです。そうやって自分自身を麻痺させて耐え忍ぶ。しかし、感情を麻痺させ続けると、いつしか自分の心がわからなくなります。

まともであり続けるためには、当たり前と思われていることに、「本当にそうだろうか」と考える癖をつけること。常に常識への挑戦をしていくことです。「創価学会の常識は世間の非常識」という揶揄もありますが、あながち間違ってはいない部分もあるのが実際でしょう。今までの組織の在り方に対しても盲従することなく、「本当にこれがベストだろうか?」と問題意識を持つこと。こういう感覚がなければ、異を唱える人を邪険に扱ったり、仏敵扱いしたりと、対話のできない一方的人間になってしまう恐れがあります。そうなってしまえば、価値を創造する団体ではなくなってしまうのです。