投稿者:多様性万歳 投稿日:2016年 3月 7日(月)18時08分27秒

お忙しい中、こちらからの勝手な質問に対して、真摯な回答を頂き、
大変ありがとうございました。心からお礼申し上げます。
何が悪で、誰が悪なのか、「紛然として競い起こる魔」を見破るために、
ジョーカー様の回答は、大きな示唆を与えてくれたと思います。

私がジョーカー様の回答から理解したことを以下にまとめてみます。
(もし私の理解が間違っていたり、足りないところがあれば指摘して下さい)

何が悪か、誰が悪か?
・魔(悪)とは「自分の弱さ」に他ならない
・誰が悪かを問うならば、「自分自身」に他ならない

その対処方法は?
・自分の弱さを知ること
・題目を唱えることによって、自分の弱さに立ち向かうこと、
・悪を滅する一念が大切
(それは特定の誰かを悪とするのではなく、自身の中にあるかないか)

現実の悪(自分以外の悪)との戦い方は?
・(自分自身の)悪を滅する一念があった上で、直接的に戦うこともあり、間接的に戦うことありのケースバイケース

学会を護るとは?
・「大聖人の魂」ならびに「学会精神」を護ること

どこまで、ジョーカー様の真意を理解しているか覚束ないですが、
以上が私が理解したことです。

そうすると、この掲示板では、多くの方たちがいわゆる「四人組」や
執行部と戦っていますが、結局は、その戦いを通して、「自身の弱さ」に
対峙することが、不可欠であるということでしょうか。

逆に言えば、「自分の弱さ」に向き合わずに、
たんに「四人組」や執行部を批判するだけでは、
自身の悪を滅することは出来ないということでしょうか。

ここで思い浮かぶのは、法華経の会座です。
法華経の会座には、十界の衆生全てが集まり、全ての衆生の成仏が約束されます。
法華経の会座はどこにあるかというと、それは釈尊の己心中であり、
また私たちの胸中です。

つまり、「四人組」も執行部の幹部たちも、実は、私たちの胸中にいるのではないでしょうか。
現実の「四人組」や執行部の「悪」や「弱さ」と戦うのは、
同時に自身の胸中にいる「四人組」や執行部の「悪」や「弱さ」を滅する(克服する)ためだと思うのです。
(個人的に、この「悪を滅する」という表現は、違和感を感じます。
たぶん、ジョーカー様は、また違ったニュアンスで言われているのかも知れませんが、
私は、悪というのは、善と共に本来、生命に具わるもので、永遠に善と悪が戦い続けるものであって、
少しでも善が油断すれば、悪が拡大するというような緊張関係が生命の本質だと思っています。
よって、悪は滅し尽くすことは出来ないと考えます)

「四人組」や執行部という抽象的な言葉で括ってしまうと、分かりにくいですが、
その批判する「悪」や「弱さ」を、例えば具体的に、
「師弟がない」「権威で納得しないことを押し付ける」「会員を大切にしない」
「レッテルを貼る」「決めつける」「異体同心を妨げる」「対話をしない」「時流に飲まれる」
「異性にだらしない」「酒に溺れる」等
と見ていけば、それは、相手の「悪」や「弱さ」を責めることが、
同時に、自身の中にある同じような「悪」や「弱さ」に対峙し、
胸中のそれらと戦うことになるのではないでしょうか。

この掲示板で「四人組」や執行部を非難しながら、彼らと同じように、
「レッテルを貼る」「決めつける」「対話をしない」「異体同心を妨げる」ことなどを行っている人は、
己心の「四人組」や執行部と対峙できていない人であり、
胸中にある彼らと同じような「悪」や「弱さ」を克服することは難しいでしょう。

外部の「悪」と対峙しながら、己心の「悪」と対峙する。
外部の「悪」と戦いながら、己心の「悪」と戦う。

こうした視点が大切ではないかと、ジョーカー様の回答を読んで、
改めて感じました。

以上