投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月23日(土)09時01分54秒   通報 編集済
五(五老僧)・一(日興)を相対し、結果として師匠の法門を厳護したのは、出家僧侶としては「日興」です。

だからといって“日蓮正宗・大石寺”の言う、いわゆる「唯授一人血脈相承」などという神話ではありません。
つまり、大聖人が日興一人に法門の血脈を相承したということではない、ということです。

日興が書いたとされる消息に

「御弟子、ことごとく師敵対せられ候ぬ。日興一人、本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき、
仁に相当て覚え候へば、本意忘るること無く候」(原殿御返事)というくだりがありますが、

ここから読み取れるのは、
他の五老僧がことごとく「師敵対」の邪義を構えた結果、日興一人が師匠の正義の継承者になったという意識です。

もし現在の大石寺側が主張するように、日興が「唯授一人血脈相承」を大聖人から受けたのなら、

日興は五老僧に対して

「自分は日蓮聖人から唯授一人の血脈を受けた身であるから五老僧と全門下信徒は無条件で私に従うべきである」

と主張すればいいだけの話です。

しかし、日興の言説にそういう問答無用の“相承主義”はありません。

こういう史実から考えられることは、大聖人滅後の初期段階は釈尊滅後に弟子が経典を結集したように、
日興も日目も出家在家の立場を超えて、後世の弟子のために師匠の法門書を収集し遺すことを第一義に考えていたのではないかと思われます。

つまり「令法久住」のためです。

その最大の担い手が、出家僧侶は「日興」、在家信者は「富木常忍」ということです。

先ほども述べましたが、

富木常忍は師匠に直接、御書や要文の保管管理を任じられ、富木常忍は生涯をかけてその責務を全うしました。

富木常忍は後に「日常」と名乗り、自邸の持仏堂を法華寺として自ら貫首となって本尊を書写しています。
常忍は一二九九(正安元)年、法華寺を太田乗明の子「日高」に付して八十四歳で死去します。

現在、富木常忍関係へ与えた数多くの真筆の御書が現存していることは、彼の功績によるものです。