投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月17日(日)08時39分24秒   通報 編集済
結論していえば「観心の本尊」とは、大聖人が竜口で発迹顕本し、
わが胸中(報身)に久遠元初の“主師親の三徳”が顕れたご境涯をいうのです。

この報身を離れた妙法を以って御本尊というならば、身延の本尊や仏像本尊と同じです。

もし、自分の己心に御本尊があるから本尊なんてなくてもよい、という輩がいたならば、
自分を鏡に映して自身に向かって拝めばよい。

ただし、そういう輩は「日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(九一九頁)との警告をよくよく思索するべきです。

そうではなく、大聖人のご境涯を「観心の本尊」として拝し、その鏡に向かって自身を照らし、
題目をあげて御本尊と「境智冥合(自身の発迹顕本)」していくなかに、三徳の智慧が具わり即身成仏も叶うのです。

これが日蓮仏法を信奉する信仰者の基本姿勢です。

以上、五重の相対を通して日蓮大聖人の仏法が如何なる教義なのかを研鑽してきました。

今年(二〇一六年)一月二日、池田先生は八十八歳の米寿を迎えられました。

今この時に当たって、弟子が師匠に甘えるのではなく、
今こそ学会員一人ひとりが、もう一度原点にもどって日蓮教学を研鑽し理解に努め、
さらにその教義を体得して一切を見、師匠に代わって広宣流布の総仕上げをしていこうと決意する時ではないかと思います。

その自覚に立って今回(二〇一五年版)の創価学会会則変更(教義)を見ていけば、会則変更の何が間違っているかは明らかです。

この問題については「第二章」で言及していきたいと思います。

さて、次ぎの第二章では

“五重の相対”を応用して、大聖人滅後から現在までの「相対」を検証していきたいと思います。
第一章 五重の相対   ― 完 ―
※【第二章 相対論の応用展開】執筆中 スコシノアイダ マッテネ♪