投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月17日(日)08時36分10秒   通報
さて、もう一つの「相待妙と絶待妙」についてですが、

大聖人は“一代聖教大意”のなかで

「この法華経(妙法蓮華経)には二つの妙がある。
天台も法華玄義のなかで『この経はただ二妙を論ず』とある。
一には相待妙、二には絶待妙である(通解)」(四〇三頁)と述べています。

“相待妙”というのは、伝教が法華秀句のなかで
「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり。浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」(三一〇頁)

と語ったように、

釈尊の一代聖教は、浅い哲理より深い哲理へと順次に相対させて、
哲学上の価値判定を繰り返し、より求心的に最高究極の哲理を求めて、
一代聖教に説かれたそれぞれの教理の位置付けと役目を規定する重要な原理の一つです。

五重の相対はこの相待妙にあたります。

それに対して“絶待妙”は

「一代聖教は即、法華経であると開会する(通解)」(四〇三頁)と述べています。
その意味は、一代聖教は妙法の哲理をあらわそうとしたものにほかならないと知ってその立場から用いていくことです。

御書には「法華経には『治生の産業は皆実相と相違背せず』と宣べ」(一四六頁)とあります。

宇宙に存在する一切のもの、一切の現象は、一法として余すところなく妙法の影を明確に映し出す鏡であり、
妙法を根底とし、直結することによって、その影は影で終わることなく実体があるものとなります。

相待妙・絶待妙の二つ(二妙)は、どちらか一方だけが真実なのではなく、
相待妙をふまえた上での絶待妙であり、絶待妙という哲理に至らなければ相待妙も意味がないのです。

こうした法華経思想の根底に一貫して流れる基本的な考え方が「相待妙・絶待妙」の哲理です。