投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月13日(水)10時19分24秒   通報
像法時代の後半に入り、六世紀から七世紀の前半にかけて、
日本では飛鳥寺・四天王寺・法隆寺などの壮大な寺院が次々と建てられ、
その内部にはさまざまな仏像や工芸品、絵画が置かれます。

それを初めて見た人々は自然と畏敬の念を感じたことでしょう。
仏教の知識がなくても、それらの迫力、美しさに圧倒されたにちがいありません。

そして像法時代の後半、八百年(釈尊滅後千八百年)が過ぎた頃に伝教大師が登場します。

彼は奈良東大寺で出家し、まもなく比叡山に入って法華経を根本とする天台の教えを信奉するようになります。
後に中国へ渡り、天台の弟子にあたる道邃(どうすい)と行満(ぎょうまん)から天台教学を学び帰国後、日本天台宗を開きました。

この頃の日本では中国と同じく、仏教が何派にも分裂していて、
伝教は諸宗と論争し、法華一乗を宣揚していきます。

そして晩年、彼は法華経・迹門に基づく“大乗戒壇”を建立して生涯を終えました。

こうして日本に仏教が根を下ろし、大聖人の在世には
「寺が一万一千三十七箇所、社は三千一百三十二社」(一〇六六頁)と多くの寺院が建立されていたのです。

これらの事例から仏教の“三時”である像法時代(千年)に中国・日本で「権実相対」の実践が成されたことになります。
・・・つづく