投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 1月 3日(日)23時37分47秒   通報

正月早々、「言葉では言い表せない程のどん底」という悩み相談の連絡が来て、つくづく人間の業の深さ、苦悩というものは恐ろしいと痛感し、同時に「同苦とは何か」を考えさせられる。相手の心を受け止め(共感)、その上で励ましていく作業は生命力を使う。自分の命を削っていかないと、相手の心には響かず、感応しない。話が終わった後でも、どれだけ真剣に題目を送ることができるかも大事である。こういった生命に肉薄するような戦いを通さずして、人としてのレベルアップはない。そして私は常に、そういった戦いの渦中にいて、必然的にレベルアップを遂げることができるのは、福運の為せる業であろうか。

信心していても、なかなか悩みが解決しないケースはザラである。頑張って頑張って頑張り抜いた結果、それでも開けなくて苦しんでいる人も多い。その気持ちは私にも痛い程よくわかる。「話が違う」という絶望感に苛まれ、焼けを起こす人もいる。これが現実である。しかしこれは、前に進み、壁にぶつかったから起こる現象であり、信心の本当の戦いはここからであることを知らねばならない。絶望してからがはじまりということが分かればいいのである。

私と同じように、同苦できなければ、生死に関わるような局地戦を日常としている人には、現在の学会に憂いを感じるのではないかと思います。即ち、教義変更と安保法制の一連の流れの中における、学会中枢の「無慈悲」さは、論外であり、一人の人を大切にするということが一体どういうことなのかが、まったくわかっていないように感じる。そのように感じさせただけでも負けであることを認識すべきであり、無慈悲自体が悪なのである。

一方的で話を聞かず、懸念や反対する人を敵視し、場合によっては仏敵扱い。組織の負の側面、濁流のごとしである。だが、毒が表面化してこそ、宿命転換もあるのも事実である。大悪起これば大善きたる、賢者は喜び、愚者は退く。なにがあろうと決して嘆く必要はないのである。すべては自身の信心を深めるために起きていることであり、カオスであればあるほど勇気が湧いて来る。

各々の信念に基づき、公明党を支援することや、役職をまっとうすることができない事態になることもありましょう。苦渋の決断を下すことにより、あらぬレッテルを張られ、人知れず苦しむ人もでましょう。本来ならば、「一人の人を大切に」をモットーとする学会の中で、そのような思いをさせてしまうこと自体が許されません。思っている以上に深刻な学会に堕してしまっているのでしょう。まったく情けない限りです。どのような決断をせよ、その選択によって、信心が強くなったか弱くなったか、見るのはそこだけです。

組織が官僚化すればするほど、無慈悲は増大する。そうなってくると、会員が犠牲となる。54年の本質も、無慈悲が根底である。無慈悲という宿命をいかに転換していくかが、創価学会の今、直面している問題である。