投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年12月20日(日)16時03分3秒   通報

私にとって師弟不二とは、「ただの言葉」です。師弟不二を本当の意味で体現するのであれば、常随給仕が不可欠であると考えているからです。常に師に従ってお仕えする常随給仕は、日興上人が日蓮大聖人に、戸田先生が牧口先生に、池田先生が戸田先生にと、事実の上においての不二の行動があってこそ成立する。現在の創価学会の規模は大きすぎるので、常随給仕の実践は不可能であり、事実、池田先生の状態について、知ることすらできないレベルでしかありません。師弟不二は、厳粛な常随給仕なくして体得することは出来ないものでしょう。

師弟不二の戦いとは、師を凌駕する戦いであり、池田先生は戸田先生の構想をすべて実現したことは元より、遥かに凌ぐほどの結果を出しています。現実の上で結果を出してこそ師弟不二であり、常随給仕なしの弟子では、到底、師弟不二の戦いを展開することはできない。よって、師弟不二とは、ただの言葉でしかありません。かろうじて出来ることは、「師弟不二の一分」の戦いではないでしょうか。牧口先生は、法難の際、「大聖人の九牛の一毛」と喝破されました。これ、師弟不二の一分の表現ではなかろうか。

常随給仕なき師弟不二の追求は、イメージであり、各々の境涯に応じて計っていくことになります。先生の書籍や映像という、謂わば、通信教育での師弟不二の追求なのです。それでも師を求める心の中に、師弟不二の信心があることには変わりはないと思います。浅い師弟不二になりがちですが、かろうじて師弟不二の一分の戦いは展開することはできる。どれだけ結果を出そうとも、創価三代の結果から見たら微々たるものです。師弟不二の追求は、届かないことを知ってからが始まりであり、その謙虚さがあれば、増上慢になることはない。師弟不二の信心とは、無限の向上を意味し、終わりなき戦いです。

三代会長以降は、師弟不二は存在していない。その象徴が54年であり、師弟不二どころか、師弟不二の一分すらなかったことになります。「第三代会長を守れ」との、戸田先生の遺言は完全無視され、足蹴に状態。さぞ先生はがっかりされたことでしょう。

それでも私はあえて言いたい。「師弟不二を体現することは、無理なんだけど無理じゃない」と。まことに「妙」な世界なのです。