投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年11月25日(水)14時21分42秒   通報

この時代を、人間が貧瞋癡に毒されずに強く生き抜き、
幸福を勝ち取っていくためには、どうしても仏法の智慧が必要です。

なぜなら、貧瞋癡の三毒をはじめとして
人間を不幸に陥れる生命の迷いをいかに克服するか――その道を深く鋭く洞察したのが仏法だからです。

仏が出現するのは、煩悩が強盛で世の中が五濁の様相を呈している減劫の時に限られるとされていて、
法門を説くのは、人々の悪心を対治し、善心を強化して衆生を煩悩から救うためです。

三毒の煩悩が強盛になり、生命の力が悪事のみに消耗されると、
生命のリズムが乱れ、生命力は枯渇していきます。

「人のいのちもつづまり」(一四六五頁)とは生命力の衰退によって寿命が縮まることであり

「せいもちいさくなり」(同頁)とは生命力の衰退が身体の形のうえに表れるということです。

大聖人は「貧・瞋・癡」の三毒こそが衆生の生命を衰えさせる根源の悪であり、
末法ではこの三毒が一層強盛になり、その悪の智慧は仏法の智慧を凌ぐと示されました。

この三毒を克服するために、仏教ではさまざまな教えが説かれていますが、

その一つに末法の濁世にあっては、三毒の貧欲は「不浄観」によって、
瞋恚は「慈悲観」によって、愚癡は「十二因縁観」によって克服できると説いています。

つまり、不浄観は身体の不浄な様相を観じて貧欲を対治するものであり、
慈悲観は一切衆生に慈悲の心をもって瞋恚を静める観法であり、
十二因縁観は諸事象が因縁によって生じるという法理を観じて愚癡の心を治す観法というものです。

しかし、末法ではこれらの法門の実践には効き目がないどころか、かえって三毒を増長させ、
諸悪の根本原因が分からないまま対処すれば、かえって悪を助長してしまうのです。

「たとえば、火に対しては水をもって消す。悪に対しては善をもって打ち破る。
ところが、逆に水より出た火に対しては水をかければ油をかけたようになって、
ますます大火となるのと同じである(通解)」(一四六六頁)というのがそれです。

この当時、再び蒙古が襲来すれば、
日本全体の滅亡の恐れすらあるとの切迫した危機感が人々の心に広がっていて、逃げ場のない不安が高まっていました。

幕府は仏教の各宗派に対して祈禱を命じ、人々も仏教に敵国調伏の祈禱を期待していた。
仏教側も真言宗だけでなく、諸宗派が恩賞を目当てにして祈禱に参加したようです。

さらに仏教だけでなく、外典に基づく思想の陰陽師なども祈禱に関与していました。

要するに、支配者も宗教者も民衆も、大きく動揺していた状況だったのです。
まさに万人が貧瞋癡に支配された亡国の姿そのものです。