投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月 1日(日)19時07分46秒   通報
■ 「苦悩」の泥沼から「仏界」の蓮華 127

名誉会長: なぜ、そうなるのか。
じつは、「幸福になりたい!」という切実な苦悩の声の中に、すでに「仏界」への芽ばえが含まれているのです。それを見抜くのが「観世音」の本義でもある。
日蓮大聖人は「観世音」について、「観とは円観なり世とは不思議なり音とは仏機なり」(御書 p776)と仰せだ。「世」とは十界の衆生です。「諸法実相の観世音なれば地獄・餓鬼・畜生等の界界を不思議世界と知見するなり」(同)。
地獄の衆生のうめき声。その音声も「不思議世界」妙法の世界の音声です。十界互具だから、地獄は地獄そのままの姿で十界の当体であり、仏界の当体なのです。そう観るのが、観世音の「円観」です。「音とは諸法実相なれば衆生として実相の仏に非ずと云う事なし」(同)。
どんな人の、どんな悩みの音声であれ、「実相の仏」を、そこに観じなければならない。「諸法」という現実の泥沼の中からこそ、「実相」の美しき蓮華が咲くのです。すべての衆生が蓮華仏です。妙法蓮華経の当体です。そう観るのが「観世音」なのです。

遠藤: そう言えば、観世音の像は手に蓮華を持っていることが多いです。

名誉会長: 蓮華は「慈愛」の象徴とも言える。
観音品に「慈眼をもって衆生を視る」(法華経 p636)とある。「慈眼」で視るとは、単なる憐れみではない。「この人がじつは仏なんだ。それを自分で知らないで苦しんでいるんだ」と観る目です
人はつねに苦しむ。「もう、だめだ」「おしまいだ」「自分は最低だ」「生きていても、しかたがない」 —- そう苦しんでいる。
苦しんでいるのは、幸福を求めているからです。「幸せに生きたい!」というのは万人の本源の叫びなのです。その声を無視したり、差別しては、何のための宗教か。
観世音とは、たとえば、商売が挫折しそうになって苦しんでいる時、救いを求める必死の「世音」に応えてくれる。助けてくれる。そうすることによって、より深い絶対的幸福 —- 仏界へと導き入れてくれる。そういう久遠の本仏の慈悲を表している。

斉藤: 商売繁盛を願う心を「卑近」だとか「現世利益」だとか見下さないのですね。

名誉会長: 見下さない。その「煩悩」を使って、仏界の「菩提」へと進ませる。向上へのエネルギーに変えていく。苦しい「煩悩」の必死の叫びの中にこそ、「菩提」への芽があると、本質を「円観」していくのです。

斉藤: 観世音 —- 世音を「聴く」のではなく「観ずる」とされている意味が、よくわかりました。

遠藤: 耳で聴くだけでなく、生命全体の智慧で観ていくということですね。

名誉会長: 観音菩薩には「真の観・清浄の観 広大なる智慧の観 悲の観及び慈の観あり」(法華経 p635 、趣意)と説かれている。これらがあるから、どんな人の声も軽視しないで、真剣に受けとめるのです。

須田: その声に「仏機」 —- 仏になる機根を観ずるわけですね。〈「御義口伝」に「観とは円観なり世とは不思議なり音とは仏機なり」(御書 p776)と〉
■ 「責任」とは「応答」すること

名誉会長: ともあれ、「聞く」ことは難しい。虚心に「聞く」ことを知っている人は、それだけで賢者です。
「聖」という字も、耳をすませて宇宙の語る音声を聞くことを示している。そうできる徳を「聡」という。字に“耳”が入っている。「聞ける」人が聡明であるということです。
特に、リーダーは会員の皆さんの「声」に敏感に反応しなければならない。鈍感ではいけない。迅速に応じなければ。
[責任」を意味する英語の「レスポンシビリティ」は、「レスポンド」すなわち「応答する」に由来する。民衆の声に、大誠実で「応答」してこそ「責任」者なのです。

遠藤: その意味では、あまりにも「無責任」な政治家が多すぎます。

須田: “耳”が、もともと塞がっているとしか思えません。

名誉会長: だからこそ、民衆が大音声を上げなければならない。
本来、民衆の声ほど、強きものはない。民衆の叫びほど、正しいものはない。民衆の怒りほど、恐ろしきものはない。
観音菩薩は「三十三身」の身を自在に現すとされている。「梵王」「帝釈」の身にもなれば「小王」の身にもなると説く(法華経 p627)。
我ら民衆の声を聞き、声を観じ、観世音の慈愛をもった政治家が必ず出現するという依文です。また、そうさせていかねばならない。「民衆の叫び」が社会を揺り動かし、左右してこそ、「民主主義」なのです。