投稿者:ジョーカー 投稿日:2014年11月22日(土)12時58分46秒  

法華講が偽本尊と主張する御本尊に向かって毎日題目を唱えています。

学会員の中にも、病気を克服した人、経済苦を克服した人、一家和楽を実現した人等、
無数の功徳の体験があります。

逆に、いじめ、家庭不和、離婚、経済苦、病苦、自殺、事故死等も厳然とあります。

そもそも人生とは四苦八苦との闘いであり、それを避けることはできません。
信心していようと、していなかろうと。

私は奇跡的に交通事故で助かった体験がありますが、一方では、亡くなる人だっています。
では、私が助かったのは信仰の力なのか否か、それは厳密に考えるとわかりません。

功徳や罰という相対的なもので信仰の力を判断しきることはできないと考えます。

では、どこで信仰の力を判断するか
私は「命の躍動感」だと思っています。

題目を一時間ほどあげると、命が躍動していることに気づきます。
「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜」とありますように、命が歓喜します。

「ありがとう」と言われるとうれしいように、南無妙法蓮華経という言葉は命にとって最もうれしい言葉、良い言葉なのだと思います。

我々は凡夫の姿ですが、本地は仏です。
仏の名前は妙法蓮華経であり、我々の名前もまた妙法蓮華経

仏である妙法蓮華経を体現した御本尊に向かって題目をあげたとき、歓喜の中の大歓喜の命(仏)が湧現します。

法華講のいうところの偽本尊に向かって題目をあげても、何の遜色もなく湧現します。
これは毎日実感していることです。

そして、題目に勝る命の躍動を感じたことはないです。
日寛上人の御本尊を縁として、毎日命を躍動させています。