投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月26日(月)06時46分37秒   通報
■ 我が生命に「医王」「薬王」の力が!

名誉会長: 法華経の教相で、それをおさえたうえで、観心というか、「己心の薬王菩薩」とは何か。
法華経はすべて「己心の儀式」です。経文を向こう側においていては、肝心なことはわからない。
わが生命の薬王菩薩とは、名前の通り、心身の病気を治し、生命を「健康」にする力用と言ってよい。その本体は「妙法」であり「仏界」です。仏界の大生命力が生命の苦しみを癒す働きを「薬王」と名づける。
ゆえに御本尊に向かって唱題するとき、己心の薬王菩薩が働くのです。
戸田先生は「医者に行って、どんなボロ医者でも、こっちの薬王が働いていますから、医者が自然にいい治療をせざるをえなくなるのです」と言われていた。
医者を選ばなくてよいということではなくて、「病気を治すのは自分自身」だということです。なかんずく自分自身の「生命力」「自然治癒力」が病気を治す根本の力です。医者は、それを手伝うだけです。

須田: 「医師が傷を縫い、神これを癒したまう」という言葉も、そういうことですね。
遠藤: 「神が病気を治し、医者が金を取る」(笑い)というのもあります。

斉藤: その「治癒力」の本源が「仏界」ですね。「不老不死の大生命力」です。
■ 「感謝」と「確信」に薬王の生命は発動

名誉会長: 戸田先生の確信はすごかった。質問会では、病気の質問がいっぱい出る。先生はよく言われた。
「『治りますか』という質問をしては、いけません。治るに決まっているから信心させているのです」と。
「それを治るか、治らないかと、そこに疑いがある」。それでは祈りは叶わない。
「人間というものは、胃ガン、胃病、肺病になる体をもっているのです。同様に、病気になった体から、病気を治す力も持っているのです。ちょうど、坂を登った人が、必ず坂を降りるようなものです。これが私自身の生命論です。生命哲学から、そう言うことができるのです」とも言われていた。

斉藤: よく、「まだ治らないのですが —- 」という質問に、叱られていたとうかがいましたが。

名誉会長: 戸田先生は、病気の人の話を聞くと、その晩、その人の夢を見ることがあるくらい、一緒に苦しんであげていた。そのうえで、本気で信心しないで功徳だけ欲しがったり、少しでも良くなったのに「まだ全快しない」と愚痴を言うような人には、厳しく信心の姿勢を正しておられた。
「形式ではなく、命を打ち込んで、御本尊にすがりつくのです。命を御本尊に差し上げるくらいの、本当の決意をもった題目ならば、治らないわけがありません」
「それを御本尊にご奉公もせずに、大病院ですら治らぬ病気を治せというのは横着すぎます。仏には、治してやらねばならない義務はありません! どれだけの人々を折伏したのか、支部をどこまで盛り上げたのか、よく反省しなさい。心を入れかえ、広宣流布へのご奉公ができたならば、私の命をかけて、必ず治ると申し上げます」
「少しでも良くなったならば、心から感謝することです。それなのに、まだ悪いところがある、まだ良くならないと、まるで御本尊様に貸しでもあるように考えているのではないですか。それではだめです。不知恩の行動に出ると、治ったものまで悪くなります。少しでも良くなったことを深く感謝して、感謝に満ち満ちて信心をしなさい!早く治してくれなどと、ご奉公もしないで要求ばかりしていると、御本尊があいそをつかします」
まさに、薬王菩薩の「報恩」の信心を教えられたのです。この信心に立ったときに、己心の「薬王菩薩」が意気さかんに活動を始めるのです。
自分の全細胞を一新させるくらいの決意で祈るのです。
六十兆の全細胞ひとつひとつの薬王菩薩をたたき起こして、発動させるのです。
私だって、三十歳までしか生きられないといわれた体で、ここまで働いて、ここまで長寿を勝ち取った。寿量品の「更賜寿命(さらに寿命を賜え)」の一文の通りと感謝しています。「寿量」には「命数」とか「寿命」の意義がある。端的に言えば、寿命を延ばして、生きて生き抜くための本源の生命力を寿量品は教えているのです。
仏法は、一面から言えば「真の健康」とは何かを探求したとも言える。

須田: と言いますと —- 。