投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月20日(火)12時39分26秒   通報
■ 本化・迩化両方への「総付嘱」

遠藤: 嘱累品のあらすじですが、神力品で上行菩薩への「結要付嘱」が終わります。その後、釈尊は立ち上がって、大神力を示します。それは、無量の菩薩の頭を右の手でなでて、こう言うのです。「自分が久遠の昔に修行した、この得がたき仏の悟りの法を、今、あなた方に託すから、この法を一心に流布して、広く人々に利益を与えていきなさい」。それを三回、繰り返します。

斉藤: 頭をなでるというのは面白いですね。

須田: 「苦労をかけるが、頑張ってくれよ」という心でしようか。「嘱累」ですから。

名誉会長: そうも言えるでしよう。「頭をなでる」というのは、まあ、頼りない子どもに「いい子だから、ちゃんとやるんだよ」と言っている感じにもとれる。

須田: 相手は、神力品とうって変わって、迹化の菩薩がいっぱい入っていますから、優しい託し方ですね。

遠藤: 本化・迹化、両方含めた「総付嘱」ですから。

斉藤: 低いレベルのほうに合わさざるを得ない(笑い)。

名誉会長: 本当に信頼している弟子には厳しいのです。全魂を打ち込んて訓練し、一切を託していく。戸田先生は言われていた。
「牧口先生に、かわいがられた弟子は皆、退転し、先生に背いた。おれは先生には、ただの一度もほめられたことはなかった。しかし、おれはこうして、たった一人残って、先生の後を継いで立っている」と。
私も戸田先生から、だれよりも厳しく訓練を受けた。くる日も、くる日も、“無理難題”ばかりだったと言っていい。門下生の中には「自分は戸田先生に大事にしてもらった」「かわいがってもらった」、そう思っている人もいた。それはそれでいい。
しかし、大事なのは、師匠の意図を「実現」していくことだ。
また、格好だけ、師匠の「まね」をした人間は皆、おかしくなっている。戸田先生の時代もそう。私の時代もそうです。
弟子には弟子の道がある。弟子の道は「実行」あるのみです。
さらにに深く見るならば、「三回、頭をなでる」というのは、師匠の「身口意の三業」そのままを、弟子が実行していけという意味ともなる。

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嘱累品から
爾の時に釈迦牟尼仏、法座より起って大神力を現じたもう。右の手を以って無量の菩薩摩詞薩の頂を摩でて、是の言葉を作したもう、
我無量百干万億阿僧祗劫に於いて、是の得難き阿耨多羅三藐三菩提の法を修習せり。今以って汝等に付嘱す。汝等応当に、一心に此の法を流布して、広く増益せしむべし。
(中略)
諸の菩薩摩詞薩衆、是の如く三反、倶に声を発して言さく、
世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし。唯然なり世尊、願わくは慮したもうこと有らざれ。  (法華経p585)

通解
その時、釈迦牟尼仏は、法座から立ち上がり、偉大な神通力を現わされた。右の手で、量り知れない菩薩、摩詞薩の頭をなでて、次のように仰せになった。
「私が無量無辺百千万億阿僧祗劫という久遠の昔に修行した、この得がたき仏の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)の法を、今、あなた方に託すから、この法を一心に流布して、広く人々に利益を与えていきなさい」(中略)
多くの菩薩、摩詞薩は、このように三度、異口同音に声を発して申し上げた。  「世尊のご命令通りに実行します。どうか、世尊、こ安心ください。ご心配なさらないでください」
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斉藤: はい。御義口伝に、こうあります。 「三摩の付嘱とは身口意三業三諦三観と付嘱し給う事なり」(御書p772)。<三回、頭を摩する(なでる)付嘱は、師匠の身口意の三業、空仮中の三諦を一心に観じる三観の智慧を付嘱したまうことである>

名誉会長: 弟子の立場から言えば、師の教えを「身」で行じ、「ロ」で行じ、「意」で行じて、一心三観の智慧を得ていく。
すなわち自分の仏界を無量に開いていく —- そういう意味になるでしょう。

須田: 「行動」ですね。

名誉会長: 「弘教」です。広宣流布に動いていくことです。広宣流布に連なった「身」「ロ」「意」の三業は、塵も残さず、全部、大功徳に変わる。
「身」が動いていても、「意(心)」が「ああ、いやになっちゃうな」と思っていたら、その分、自分で自分の功徳を消しているのです。

遠藤: 「右手で頭をなでる」の部分は、サンスクリット本では、「右手で右手をとって」とあります。いわば全員と握手したのです。
これは師匠が「握りこぶしをもたない」つまり「自分の知っていることは全部、包み隠さず示した」という意味だと考えられます。

名誉会長: バラモン階級の師匠は「秘伝」とか「秘法」を売りものにしていた。それが「握りこぶし」だね。しかし、釈尊は、そうではなかった。
「如我等無異(我が如く等しくして、異なること無からしめん)」(法華経p176、方便品)と言って、皆に、最高の「秘法」すなわち「妙法」を教えたのです。